2016年4月15日金曜日

 
世の中には、理不尽なことが山とある、人生の諸先輩の方々が、口をそろえてそう言われます。聖書にもいろいろなケースがあります

が、理不尽ということになれば、ヨブ記のヨブの右に出るものはいないでしょう。
 ヨブは非の打ちどころのない義人でした。にもかかわらず、試練が許されました。一日のうちにヨブは財産の全てと全ての子どもを失

いました。でも、ヨブは愚痴をこぼさず神をあがめました。
 おもしろくないサタンは、いくらヨブでも命を的にしたらきっと神を呪うに違いありませんと、狡猾に神に語り、ヨブの足の裏から頭の頂き

まで、悪性の腫物で打ちました。その苦しみは非常なもので、友人がヨブと見分けがつかないほどのものでした。それでもヨブは罪を犯

すようなことを口にしませんでした。
 3章以降になると、ヨブを見舞いに来た3名の友人とヨブとのやりとりが長く記されています。
 友人たちは、ヨブは罪を犯したのだからこんな病が許されるのだ、と決めてかかっています。無理もないでしょう。目で見えるところでは

、確かにヨブは、神にさばかれ、罪を罰せられたかのような状態にあったからです。
 しかし、38章になると神は沈黙を破ってご自身を明らかにされます。そして神は、ヨブが失ったものの2倍を与えられ、以前にましてヨ

ブを祝福されました。理不尽と思える事が許されたとしても、神の正義は変わりませんでした。神はヨブの正しさを覚えておられ、その

正しさに報われました。
 私たちの地上の歩みにはさまざまな事が許されます。一見、理不尽だと思えたとしても、神は義なるお方です。必ず、正しく報いてく

ださいます。それ故つぶやかず、感謝をもって主に従っていきましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年4月17日号(第880号)より転載—

0 件のコメント:

コメントを投稿