2014年12月27日土曜日

クリスマスの贈り物
 街にはイルミネーションが輝き、間もなくクリスマスです。幼い頃、靴下に手
紙を入れてサンタさんが来るのを待ちわびていたものです。プレゼント もさる
ことながら何よりサンタさんに会いたいという一心で、夜更かしをしましたがい
つも待てずに寝てしまい、子ども心にも残念でした。
 クリスマスにはプレゼント交換がありました。選ぶ楽しみがあり、もらう楽し
みがあり、学校も冬休みになるし、1年で一番楽しい日でした。私たち は互い
に贈り物をやり取りしますが、神さまが与えてくださる贈り物があります。み子
イエスさまです。
 ヨハネの福音書3章16節に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほど
に、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びるこ となく、
永遠のいのちを持つためである」と書いてあります。
 神さまのひとり子とは、イエスさまのことです。神さまはありのままの私たち
(世)を愛してくださり、罪や死に定められている私たちを、御子イエ スキリ
ストによって救おうとなさったのです。そして事実約2000年前、確かに主イ
エスはこの世にお生まれになったのです。
 イエスさまは、30歳から公生涯に入られ、病をいやし、悪霊を追い出し、サタ
ンの縛りから人々を解放しました。そして、私たちを罪や死から救う ために、
最後には十字架で死なれました。
 このイエスさまこそ私たちに対する、神さまの最大級の贈り物なのです。イエ
スさまが十字架で死なれたのは私の罪を贖うためだったと信じるなら、 今こ
の時にもあなたは救われます。そして、それこそが神さまがあなたに与えよう
とされる贈り物だと知ってください。 (イスラエル北野)


—み声新聞2014年12月28日号(第812号)より転載—

2014年12月18日木曜日

時がある
 聖書に、ヨセフという人物が出てきます。ヨセフはヤコブの年寄り子で、12人
いる息子たちの中で、最も父に愛されていました。
 17歳の時、ヨセフは夢を見ました。一つは、11の束が自分の束に向かってお辞
儀をするという夢で、もう一つは、太陽と月、11の星が自分を伏 し拝んでいる
夢です。自分は将来父や母、兄弟から拝まれるような人物になるというのです。
これを聞いて彼はさらにねたみを買い、奴隷に売られてし まいました。
 それでも、彼は神さまに祝福され、主人からの厚い信任を得ます。ところが、
主人の奥さんを辱めたというぬれぎぬを着せられ、今度はろうに投げ込 まれた
のです。夢とは真逆を行く展開です。詩篇105篇には「彼のことばがその通り
になる時まで、主のことばは彼をためした」と書かれています。
 しかし、ついにヨセフに神の時が到来しました。獄舎の中で囚人の夢の解き明
かしをしたことによって、エジプト王パロの夢の解き明かしをなし、ヨ セフは
パロに継ぐ大臣となりました。30歳でした。
 伝道者の書に「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには
時がある」とも「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」とも 書かれ
ています。ヨセフは、夢が成就する時まで、ためしの中でさまざまな訓練、整え
を受けていたのです。どの時をとってみても、無駄な時はありま せんでした。
そして、時満ちて神さまは最善の時に約束のことばを成就されました。
 時を待つ間、私たちはためされます。しかし、それは、約束の成就に向けた準
備の期間です。神の約束は時が来れば必ずその通りに成就します。信仰 と忍耐
を働かせ、神の時を待ちましょう。
 
(イスラエル北野)

—み声新聞2014年12月21日号(第811号)より転載—

2014年12月13日土曜日

希望があります
 「教会」は、キリスト教の奥義です。エペソ人への手紙1章23節にはこう書か
れています。「教会はキリストの体であり、いっさいのものをいっさ いのもの
によって満たす方の満ちておられるところです」
 霊的なものにおいても、実際的なものにおいても、キリストの恵みが教会には
満ちています。だから教会には、世にはない希望があります。
 アメリカ・サンディエゴ教会のお嬢さんにEちゃんがいます。彼女は自閉症な
どの病にあり、じっとしていられず、野獣Eと呼ばれていました。
 しかし、教会に繋がることによって神さまは「賛美の賜物があります。賛美さ
せなさい」と語ってこられました。そして、そこからいやしが始まりま した。
年を重ねるほどうまくなり、平行して解放が進み、今や立派なゴスペルシンガー
です。
 さらに教会では、治らない病がいやされるというみわざがあちこちで起こって
います。いやしだけではなく、その弱いところに突出した才を注ぎ、栄 光を現
してくださっています。神のいやしは、多くの方の希望となっています。
 このように世が与えることのできないものが教会にはあります。先ほどのいや
しの証し(体験談)はまだほんの小さな一例です。これからも神さま は、不可
能を可能にする全能のみ手を大きく動かしてくださいます。
 あなたが持っている問題も神さまは解決してくださいます。教会には希望があ
るのです。こういう訳で私たちは教会に繋がりましょう。神さまはあな たの涙
も祈りも、すべてご存じです。すべては必ず逆転します。信じる力を頂いて教会
に繋がり、神さまの奇跡の祝福を受けていきましょう。
 
(イスラエル北野)

—み声新聞2014年12月14日号(第810号)より転載—

2014年12月3日水曜日

脱出の道
 先日、北海道聖会が行われました。今回は各教会でイスラエル宣教チームのダ
イジェストムービーを視聴することになったので、娘のパソコンを借 り、動画
をダウンロードして準備しました。そして、ついでに使わなくなったファイルを
掃除してくれるよう娘に頼み、安心して出掛けました。
ところが、聖会会場到着直前になって、ある思いが来たのです。娘が今回使う動
画を間違えていっしょに捨ててしまったのではないかという思いです。
あり得る、と私たちは思い、早速確かめてみるとその通りパソコンの中は空っぽ
でした。一瞬目の前が真っ暗になりました。全聖会でムービーを見るので、これ
はあってはならない失敗です。
私たちは、このことが許されたことをまず主に感謝しました。そして、再びダウ
ンロードを始めました。ところが会場の電波状態が悪く、自宅なら5分で終了す
るはずが、残り30分の表示から、うんともすんとも動かず、もう駄目かと諦めか
けていました。
するとその時、突然夫がパソコンを抱えて走り始めました。電波状態が良い1階
に行き、そこでダウンロードし、さらに部屋に戻り作業を続けたところ、視聴す
る4分前にはすべての手続きが完了しました。あたかも何もなかったかのよう
に、ことは進んだのです。
コリント人への手紙第一10章13節には「神は真実な方ですから、あなたがたを、
耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられ る
ように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」と書かれています。問題
があったとしても諦めるのは、早いです。主に信頼することを学んで いきま
しょう。
 
(イスラエル北野)

—み声新聞2014年12月7日号(第809号)より転載—

2014年11月29日土曜日

赦 し
 代々、教会で継承されている「主の祈り」の中に、「われらに罪を犯す者をわ
れらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」という一節がありま す。赦し
を語る一節で、私たちが赦されるには、私たちがまず自分に罪をおかしてきた人
の罪を赦すことが必要だというのです。ルカによる福音書には 「赦しなさい。
そうすれば、自分も赦されます」(6章37節)と書かれています。
 これは、神さまの原則なのです。私たちは赦すことによって、赦されます。赦
されるためには自分もまた赦すことが必要なのです。マタイの福音書 18章で
は、王さまに返せないほどの借金があるしもべがいました。主人は哀れに思って
免除してくれました。にもかかわらず彼は自分にわずかな借金 がある兄弟を赦
しませんでした。それを聞いた主人は怒り、彼を獄吏に引き渡しました。「あな
たがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわ たしの父も、あなたが
たに、このようになさるのです」そうイエスさまは語られました。
 イエス・キリストを信じた者は、一切の罪の赦しを受けています。その大きさ
に比べれば人と人とに生じる罪の赦しは小さいものなのです。イエスさ まに赦
していただいたのだから私たちもまた私たちに負い目のあるものを赦さなければ
なりません。神はこのように振る舞うことを喜ばれるのです。
 罪をお赦しになる権限をお持ちになっているのは父なる神さまだけです。そし
てそれは、イエスさまの十字架と言う、尊い犠牲によって成りました。 確かに
赦せないことなどがあるでしょう。しかし、聖霊さまの助けを頂き、赦しましょ
う。互いに赦し合うこと、これは祝福を受ける土台であり、また 罪に打ち勝つ
力なのです。
 
(イスラエル北野)

—み声新聞2014年11月30日号(第808号)より転載—

2014年11月22日土曜日

イエスのいやし
 ヨハネの福音書5章に、38年もの間病気でいる人のことが書かれています。イ
エスさまは彼の病気がもう長い間のことなのを知って「よくなりたい か」と言
いました。病人は、「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れ
てくれる人がいません」と、弁明のような答えをしました。素 直に「はい」と
は言えなかった、彼の心の屈折が読み取れます。
 長患いは、魂をむしばみます。一口に病と言っても治るものもあればそうでな
いものもあります。忍耐が求められ、長く患ううちに、いつの間にかい やされ
ることを諦めてしまうということは決して少なくはありません。
 娘が幼稚園に通っていた頃、障がいを持つ子のお母さんが何名かいました。教
会にお誘いしましたが、一様に断られました。これ以上失望したくな い、もし
いやされなかったらと考えると二の足を踏めない、そんな心理が働いたのではな
いかと私は思います。
 しかし信じることによって皆さんが失う物は何一つとしてないのです。神さま
は真実です。そしてイエスさまへの期待は決して失望に終わることがあ りませ
ん。たとえ、皆さんが望みえない病にあるとしても、イエスさまはあなたを、ま
たその人をいやすことがおできになるお方です。
 イザヤ書53節に、「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」という一文が
あります。このことば通りイエスさまは私たちのあらゆる罪、病を 担って十字
架で死んでくださいました。そして3日目によみがえり、救いの道を完成されま
した。
 人にはできなくても、神はどんなことでもできるのです。イエスさまを信じ、
イエスさまに期待してみませんか。
 
(イスラエル北野)

—み声新聞2014年11月23日号(第807号)より転載—

2014年11月15日土曜日

永遠という時代へ
 その日、東京は珍しい大雪でした。18歳の私は、福音を信じ喜びをかみしめな
がら雪道を歩いていました。天国のことはまだよくは分かっていませ んでした
が、イエスさまがあまりにも素晴らしいので、私はこれで十分、もうほかに望む
ものはありませんと主に申し上げました。そして洗礼がこの信 仰のゴールだと
思っていました。
 ところが、クリスチャンになって、神の恵みの広さ深さ大きさを知り、洗礼は
むしろ神の国の住民として生きる私たちにとっては、いわばスタートで あると
知るに至りました。
 イエスさまは、産まれながらの罪人である私たちを愛し憐れみ、十字架で死な
れることによって私たちを罪から贖ってくださいました。そして、私た ちが地
獄ではなく天国に行けるようしてくださったのです。
 ヘブル人の手紙9章には、「人間には、一度死ぬこと死後にさばきを受けるこ
とが定まっている」と明記されています。私たちの誰もが、死を迎える 定めに
あります。以前まではそれで終わりでした。しかし、キリストが現れた今、神は
信じる私たちに、御霊に属する復活の体を下さるのです。
 コリント人への手紙15章にはこう書かれています。「朽ちるものが朽ちないも
のを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』とし るされて
いるみことばが実現します」(54節)朽ちるものとは、血肉の体であり、不死と
は神が下さる御霊の体です。
 もはや死を恐れることはありません。私たちにとって地上のいのちはほんのわ
ずかな時間です。この中でよみがえりの体を頂いて、やがては私たちは 永遠
という時間を神とともに生きるようになります。この希望と信仰をあなたもお
受けください。 (イスラエル北野)

—み声新聞2014年11月16日号(第806号)より転載—