2019年10月16日水曜日



 愛はキリスト教の神髄です。神は愛です。神を抜きにして愛はなく、愛は神そのものです。
 皆さんは、愛といえばどういうイメージを持ちますか。日本語では、愛は愛というその一言でまとめられます。しかし、他言語では男女間の愛、友愛、神の愛とそれぞれが違う言葉が充てられています。実質が違うので言葉が違うのです。
 神の愛とは、イエス・キリストの生涯そのものです。ヨハネの福音書に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(3章16節)と書かれています。神は世にある私たちを愛されたが故、ひとり子なるイエスさまを私たちに下さいました。大きな犠牲です。しかし神はそうすることをみこころとされたのです。そこに、私たちへの神の愛が明らかにされています。
 しかし、その愛は目をそむけたくなるような厳しいものであったのです。イエスさまは王であるにもかかわらず、誰よりも虐げられました。神は、子羊イエスさまの上に私たち人類の全ての罪を置かれ、イエスさまは十字架で死なれました。そして、贖(あがな)いの完了のしるしとして、3日目に死からよみがえりを果たされました。
 その愛は決してきれいなばかりではありません。愛の中の愛、神の愛であっても、イエスさまを思い出してください。いばらの冠をかぶらされ、着物を取られ、むち打たれました。何でこんな苦しみを耐えられたのでしょう。私たちのため、私たちが生きるため、救われるために、イエスさまは十字架を忍んでくださったのです。
 愛はその本質において自己犠牲を伴います。痛みのない愛はありません。傷ついて、涙して、愛を学んでいくのです。負けたように見えるかもしれない。しかしそうではありません。十字架の主を仰ぎ見ましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年10月20日号(第1064号)より転載—

2019年10月9日水曜日

救 い

 世には多くの宗教があり、救いや解決をうたっています。しかし、それらの宗教には何の確証も無く、かえって弱さに付け込んで、食い物にしているように私には見えます。
 以前、救いに関して図を書いて教えられたことがあります。天と地があって、地から天に向かって伸びている幾本もの柱があります。この柱とは人間の「努力」です。一番長い柱も天には届くことができませんでした。
 次いで見てみると、天から地上に差し伸べられている一本の柱があります。この柱は「救い」といいます。この柱に応答して登るなら天に行くことができます。
 救いは努力で手に入れられるものではありません。確かに世には苦行や物断ちなど、お勤めを語る宗教は数多くあります。しかし、それら宗教の内には救いを約束するものは一つとしてないのです。
 使徒の働き412節には、「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」と書かれています。
 この方とは、イエスキリストです。イエスさまは天から来られました。先ほど語ったように、天から地へと差し伸べられた一本の柱、それはイエスさまとその福音です。
 イエスさまは、罪の奴隷である私たちを愛し憐れみ、死に打ち勝つ救いをもたらすために時至って世に来られました。そして、その十字架の死を通して私たちを贖(あがな)い、3日目によみがえりを果たされ、ここに福音を打ち立てられました。
 あなたもまた、このイエスキリストを信じ、救い主として心にお迎えするなら、救われます。神さまのみこころはあなたが救われることにあります。救いはキリストにあります。ただ信じることによってすべてが全うされます。(イスラエル北野)

み声新聞2019年10月13日号(第1063号)より転載—

2019年10月2日水曜日

アブラハムの信仰

 へブル人の手紙11章6節には「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」と書かれています。アブラハムは、まさにこの信仰を持つ人物でした。
 ローマ人への手紙418節には「彼は望み得ないときに望みを抱いて信じました」という1節があります。これは直接にはアブラハムのことを語った言葉です。アブラハムはおよそ10
0歳になって、妻のサラの胎が死んだも同然であるのにもかかわらず、神が約束された男の子、イサクを受けると信じました。望み得ないときに信じたのです。そして約束通り、イサクが誕生しました。
 その後、アブラハムは試練に入ります。神が約束の子イサクを全焼のいけにえとしてささげるよう語られたのです。アブラハムへのすべての約束は、イサクに継承されるものであったので、イサクが死んだら約束は成り立ちなくなります。しかし、これを聞くとアブラハムは直ちにイサクを伴い、示された場所であるモリヤの地の山へ向かいました。そこで祭壇を築き、たきぎを並べ、イサクを縛りその上に置きました。そして、刀を取って今まさに屠(ほふ)ろうとしたその時でした。
 「あなたの手を、その子に下してはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子さえ惜しまないでわたしにささげた」主の使いが天から彼を呼びました。
 アブラハムは、神には人を死者の中からよみがえらせることができる、と考えたのです。それで彼は死者の中からイサクを取り戻しました。私たちもまた、信仰によるなら同じことが起こります。アブラハムの信仰にならいましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年10月6日号(第1062号)より転載—

2019年9月25日水曜日

病のいやし

 先日、親しい知人が他界しました。大腸がんでした。何でも、手術できない所にあるがんであったということで、治療しようがなかったと聞きました。治癒を望みえない治療はつらかっただろうと思います。「これじゃあ棺おけに足を半分入れているようなものだよ」と本人は冗談めかして笑っていましたが、迫りくる最後にお1人で戦われたその胸中はいかばかりであったでしょう。
 当然のことですが、世の中には医者が治せない病がまだまだ多くあることに気づかされます。確かに、多くの医学者の研究によって医療は日進月歩を遂げておりその努力には敬意を表します。しかし、医学は万能ではないのです。本当の意味ではいやしは神の領域でしかない、と私は思っています。いやしは神のものでありキリストに属するものです。そして、その根拠はキリストの十字架の贖いです。
 イザヤ書53章に「彼(イエス・キリスト)の打ち傷によって、私たちはいやされた」(5節)という一文があります。これは、神のいやしの根拠としてしばしば引用される聖書のことばです。私たちのいやしの根拠はイエスさまの十字架でのみ苦しみにあり、その打ち傷にひきかえて私たちにいやしが与えられるのだというのです。
 また、詩篇103篇3節には「主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし」と書かれています。赦しといやしには密接な関係があります。
 まず、神さまから赦されること、それが、いやしの始まりとなります。イエスさまの十字架は、私たちの罪の身代わりであったと信じるのなら、その人は赦しを得ています。そして、多くの縛りから解放され、病からも解放(いやし)されます。イエスさまを信じ、すべての点で幸いと健康を受けましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年9月29日号(第1061号)より転載—

2019年9月18日水曜日

国 籍


 某自動車会社前会長のG氏は、ブラジル、レバノン、フランスと3つの国籍を持っています。国籍は主に血統主義と出生地主義と2つに分かれているため合法的に複数の国籍を持つことができます。日本では当たり前のように与えられている国籍ですが、国際社会の厳しさを知る者は、幾つかの国籍を持ち、安定した基盤を得ようと労苦しており、これは珍しい事ではありません。
 国籍とは「所属」です。私たちの所属を証明するもので、重要なものです。日本国籍を持つ者には日本のパスポートが与えられます。今の日本のパスポートでは、北朝鮮を除くあらゆる国々に行くことができます。
 また、世界には「難民」と呼ばれる方々がいます。紛争や人権侵害などから自分の命を守るためにやむを得ず母国を追われ逃げざるを得なかった人たちで、アイデンティティーを保証する祖国を失った彼らは、パスポートもなく所属も国籍もありません。国籍に関しては、聖書ではピリピ人への手紙3章20節に「けれども、私たちの国籍は天にあります」と書かれています。
 ある青年が、長年国籍のことで悩んでいました。A国か日本かという葛藤があったと聞いています。彼がその悩みから吹っ切れたのは、先ほどの聖書の言葉によりました。A国人でも日本人でもなく、自分はクリスチャン、すなわち天国人であると彼は知ったのです。自分の国籍は天国だと知った時、長年彼を縛ってきたものが解かれていきました。
 誰でも、福音を聞いて、イエスさまを救い主として信じるなら、神の子とされます。そして、天の国籍を持つ者として、新しく生まれます。それ故、地上の歩みが終わる時には、無条件で天へ迎え入れられます。
 あなたもイエスさまを信じて、天の国籍を受けましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年9月22日号(第1060号)より転載—

2019年9月11日水曜日

待たされる

 神さまの道を進んで行くと、必ず通されるレッスンがあります。「待たされる」ことで、それを好む人は稀(まれ)でしょう。しかも、神さまは私たちに対して、時に沈黙を守られます。この狭間(はざま)にあって悩み苦しんだのが「ヨブ記」のヨブです。時が来るまで彼は待たされました。
 また、詩篇105篇19節には「彼のことばがその通りになる時まで、主のことばは彼をためした」と書かれています。彼とはヨセフです。ヨセフは偉くなるという示しを受けていました。しかし現実は奴隷に売られ、監獄に入れられ、示しとは真逆の道を進みました。彼もまた、待たされた人でした。
 更に、ハバクク書2章には「もし遅くなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(3節)と書かれています。これは、リバイバルを約束する神の言葉として、教会に与えられた言葉です。そこから待たされ、今はもう三十数年になります。
 ヤコブの手紙1章には次のように書かれています。「私の兄弟たち。さまざまな試練にあうときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためさると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります」(24節)
 すべては私たちを立て上げるため、神は悩みの炉さえもゆるされるのです。信仰と忍耐は密接な関係にあり、約束の成就に至るまで信仰はためされます。ここに忍耐が生じます。待たされるのです。しかし、終(つい)に時が来ます。忍耐の末にヨブは失ったものの二倍の祝福にあずかりました。ヨセフは一日にして囚人からエジプトの大臣になりました。神さまは真実なお方です。試練はこの上ない喜びです。(イスラエル北野)

み声新聞2019年9月15日号(第1059号)より転載—

2019年9月4日水曜日

一粒の麦

 ヨハネの福音書1224節に「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」という聖句があります。哲学的で、含蓄の深いことばです。けれども、一粒の麦として死ぬということがどういうことなのか今一つ、よく分かりませんでした。
 23
節でイエスさまは「人の子が栄光を受けるその時が来ました」と語っておられます。栄光とは、イエスさまが十字架にかかられ死なれる時がやってきた、ということで、ここでいう一粒の麦とは、直接的にはイエスさまのことを指しています。イエスさまがわたしたちの罪の身代わりとなって、死ぬことが無ければ、ただ一人の死で終わります。しかし、もし神のご計画の内に十字架で死ねば、そのみ苦しみの末に豊かな救いの実を見ることができる、というのです。
 また、25節にはこう書かれています。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです」これも24節と同様に逆説的な表現です。いのちを憎むことが、いのちを得ることに繫がるというのです。
 自分のいのちを愛するのは私たちの肉です。時にその肉のいのちを憎むほどまでして神に従ってゆくことが求められます。自分のいのちを自分のものとせずに福音のためにいのちを捨てるなら、かえってそれを得るようになります。この聖句は、殉教への招きのみことばでもあるのです。
 この世のいのち以上に大切なものがあります。それは永遠のいのちであり、天の報いです。あなたもキリストに従い通して、一粒の麦として地に蒔かれるなら、そこから確かに大収穫がもたらされ、報いとして天の宝を受けるでしょう。共にキリストに従いましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年9月8日号(第1058号)より転載—