2015年4月18日土曜日

脱出の道
 教会には、1年を通してかえりみる年度のみことばというものがあります。ことしは、出エジプト記34章10節から、「この民はみな、主のわざを見るであろう。わたしがあなたとともに行うことは恐るべきものである」という一節が与えられました。
 いったい何が起こるのだろうと戦々恐々としていたら、果たして試練がやってきました。北海道では、2名のクリスチャン女性に相次いでがんが許されました。私たちは驚き、一斉に教会のとりなしの祈りの手が挙がりました。
 まだいやしの途中経過の段階ですが、一人の女性はがんが転移している可能性が非常に高く、またがんそのものも大きくて手術はまだ無理、と診断されていました。ところが、抗がん剤療法だけで転移も無く、がんそのものも縮小し、手術せずに治る可能性さえ見えてきました。さらに、もう一人の女性も、手術は大成功に終わり、ご家族の方が安堵されました。これらはみな恐るべきものです。神さまはご栄光を現してくださいました。
 コリント人への手紙第一10章には次のように書かれています。「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」(13節)
 私たちは神さまに知られています。神さまは私たちを愛してくださっています。神さまにはおできにならないことなど一つもありません。こういう訳で私たちにはあらゆる試練が許されますが、必ず脱出の道が用意されています。そして、後には試練そのものも大きな祝福へと変えられます。神さまに信頼しましょう。 (イスラエル北野)


—み声新聞2015年4月19日号(第828号)より転載—

2015年4月11日土曜日

愛すること、従うこと
 私が結婚を決めたのは、結婚がどんなものか、心の中でふに落ちたからです。ある人は、結婚とは、情熱だと言いました。私は、結婚は責任であると考えていました。決めたなら最後まで責任をもって添い遂げる、それが結婚だと思っていました。
 保守的な考えですが、ある老婦人の結婚観を聞き、さらに保守的になりました。彼女は、興味深いことを語りました。「あなたね。女が自分に付いてこいと言っても男が付いてくると思う? 反対でしょう。付いてこいって言うのは男の愛の形で、女はそれを選ぶかどうかよ」
 これで、目が開きました。男と女では愛の形が違うと。それを裏付けるかのように、エペソ人への手紙5章にはクリスチャンの結婚に関することが書かれています。「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい」(22節)「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」(25節)
 両性に求められている愛は違うのです。ある牧師は、愛することはより難しいもので、男性に任せられているものであって、女性は、従うという形でその愛を示すのだと言いました。老婦人の語るところと一致しています。愛は、愛する愛と従う愛があるのです。
 さらに、結婚は、かしらなるキリストと花嫁である教会を指して語られている神の奥義でもあります。花嫁に求められることは、花婿なる夫に従うことです。こういうわけで、愛には愛する愛、従う愛があるのです。ここに調和があり、一致があります。愛する愛がとかく目立つものですが、従うという愛もまた素晴らしいものです。
 
(イスラエル北野)


—み声新聞2015年4月12日号(第827号)より転載—

2015年4月4日土曜日

感謝
 聖書には、多くの教えがありますが、中でも、「すべての事について、感謝しなさい」(テサロニケ人への手紙第一5章18節)という奨励は抜きん出て素晴らしい教えです。
 今は天国に帰られたマーリン・キャロザース氏は、この教えを20年にわたって私たちに学ばせてくださいました。ご本人がおっしゃっていますが、この教えを実行するのは、語学を学ぶに匹敵するほど難しいといいます。特に「すべての事」というのが難しく、良い事を感謝することは簡単ですが、悪いことを感謝することはそうそうできることではありません。
 しかし、20年の中で私たちは、悪い事が起きると、感謝だと気付き、口先だけですが、感謝しますと言葉が出るようになりました。すると感謝の威力を見始めたのです。
 クリスチャン女性であるAさんは、友人とお食事に行った際、彼女の注文した料理だけが来なかったそうです。彼女は、静かに「プレイズ・ザ・ロード(主を賛美します)」と言い、感謝しました。それを見ていた青年は驚き、後には2人は結婚しました。
 また、私たちの教会の牧師は、歯の詰め物が取れたことを感謝しました。すると、そんな事まで感謝するのか、と感銘を受けたチェコの人がいて、そこから牧師が書いた本がチェコ語で出版されるようになりました。
 レベルの違う主の手を見たのです。感謝が持つ力は、人生を変えるほど強力なものです。ローマ人への手紙には、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(8章28節)と書かれています。どんな事も感謝しましょう。  (イスラエル北野)

—み声新聞2015年4月5日号(第826号)より転載—

2015年3月28日土曜日

信仰が直したのです
 聖書には、イエス・キリストによる病のいやしの記述がたくさん出てきます。興味深いのは、いやしが与えられる時、多くの場合にイエスさまは「あなたの信仰があなたを救ったのです」と語られたことです。
 信仰といやしは密接な関係にあります。信仰はいやしの土台となるものです。マルコの福音書5章に、12年の間長血をわずらっている女のいやしが書かれています。彼女は、多くの医者からひどいめに会わされてお金も底をつき、しかも、病状は悪くなる一方でした。彼女に残された道は、イエスさまに頼る以外にありませんでした。
 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」―彼女はそう信じ、群衆に紛れて後ろからイエスさまにさわりました。するとたちまち血の源がかれて、ひどい痛みが直りました。イエスさまもそれを知り、状況を聞くと彼女に言いました。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい」(34節)
 これらの事は皆、私たちのために書かれています。長血の女に働いたその同じ信仰は今日も生きています。それがからし種ほどの小さな信仰であっても、神は力を現してくださいます。ですから、問題を前にしてのっけからあきらめてしまうことが一番良くないことです。神さまは必ず問題の背後にご栄光を現す良きご計画をお持ちだからです。しかし、信仰なんて面倒だ、という人々も少なからずいます。これは大きな損失です。イエスさまにはおできにならないことは一つも無いからです。
 望み得ない時に望みを抱いて信じる、これが信仰です。主に信頼する者は、決して失望させられることがありません。 (イスラエル北野)

—み声新聞2015年3月29日号(第825号)より転載—

2015年3月21日土曜日

心を尽くして
 今どき、問題の無い人などいないのではないかと思います。わが家もまた例外
ではなく、先日、娘がやっとなじんできた職場で仕事を減らされ、娘以 上に私
が落ち込んでしまいました。どんどん否定的な思いになり、あたかも神さまがい
ないかのように、世を恐れ、世に縛られました。「全ての事を感 謝する」とい
う教えを知らなければ多分、心労でつぶれていたと思います。
 しかし、神さまは、このような困難の中にいる私に、ソロモンの箴言を示して
くださいました。そこにはこう書かれていました。「心を尽くして主に 拠り頼
め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そう
すれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(3章5節)
 私たちは、何とか自分の力で問題に当たろうとします。しかし、問題というの
は手には負えないから問題なのです。自分の悟りなんて何の解決にもな りませ
ん。では、どうすればよいのでしょうか。心を尽くして主に頼るのです。祈りで
す。神さまの前に心を注ぎ出すのです。神が助けてくださらない と、どうして
知るでしょうか。
 神さまはすべてをご存じです。たとい罪の中にあっても、行く道に迷っていて
も、あらゆる所において神さまを認めるなら、主はそこから私たちの道 をまっ
すぐにしてくださいます。これが、愛にして義なる方、神さまというお方なのです。
 そうこうするうちに昨日、急に娘の仕事が増えることになりました。神さまの
逆転勝利が動き始めました。それまでの恐れに代えて、今は平安と安ら ぎを
頂いています。神こそ我が盾、また力。主に拠り頼むことができるなんて、何
という喜びでしょう。
 
(イスラエル北野)

—み声新聞2015年3月22日号(第824号)より転載—

2015年3月14日土曜日

愛
 神はあなたを愛しておられます。神の愛はアガペーの愛と呼ばれ、最高の愛を
指します。その愛は私たちにイエス・キリストをくださった愛です。
 イエスさまは、神のひとりごですが、私たちのすべての罪を赦しあがない、永
遠の命を与えるために、定められた時にこの世に来られ、十字架で死 に、よみ
がえりを果たされました。この十字架のうちに神の愛は完全な形で現されまし
た。ですから、聖書はこう言います。「私たちすべてのために、 ご自分の御子
をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのもの
を、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」
 私の母ですが、先日神さまに大いに憐れんでいただきました。ぼうこうに影が
あると医師に告げられ、がんが疑われました。母はアレルギー体質で薬 を使う
ことができません。点滴の生理食塩水でも反応するので、病気といえば神に癒や
していただくしかないのです。ひたすら主を求めいやしを求め、 多くの方に
祈っていただいた結果、ぼうこうの影は消えました。
 神はあらゆる問題において助けを備え、愛を現してくださいます。私たちは決
して見捨てられることがありません。ローマ人への手紙にはこう書かれ ています。
 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。(中略)死も、いのち
も、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者 も、
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにあ
る神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
 神はあなたを愛しておられます。この愛にすべてを委ね、憩いましょう。
 
(イスラエル北野)

—み声新聞2015年3月15日号(第823号)より転載—

2015年3月7日土曜日

十字架
もう20年以上昔のことですが、私たちの教会に原寸大の十字架を負って世界をま
わっている兄弟がやってきました。ちょうど、夫婦で熊本教会に遣わ される直
前であったので、彼の許しを得て、私も十字架を担わせていただきました。
 案の定、ずしりと来ました。やはり重いです。しかし、十字架の下の部分には
タイヤが付けられていて、それが回るにつれ、何とか前に進むことがで きまし
た。まっすぐに進むなら、この十字架は、担えないものではありません。ところ
が、向きを変えてみようとすると、取り回しが大きくて回転する ことができま
せんでした。十字架の正しい担い方は、ただひたすらまっすぐに前進することに
あるのだと知りました。
 マルコの福音書でイエスは、群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せてこう言わ
れました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、 自分の
十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(8章34節)
 これは十字架を担いなさい、という勧めですが、弟子たちだけでなく、全ての
人に向かって語られている言葉です。私たちにはそれぞれ負うべき自分 の十字
架があるのです。
 しかし、重さや苦しさの故に、担い始めた十字架を下ろすということもまたあ
ります。ある牧師が証ししていましたが彼は、訓練に耐えかね十字架か ら下り
たそうです。しかし、奥さんは祈り続け、ついに祈り切りました。教会が新しく
なった時、彼は自分が訓練を受け損ねたことに気づきました。
 十字架を下ろしてはなりません。それには報いがあるからです。後の日に、私
たちは十字架を担うことの栄光を見ます。十字架を愛しましょう。
 
(イスラエル北野)

—み声新聞2015年3月8日号(第822号)より転載—