2015年3月7日土曜日

十字架
もう20年以上昔のことですが、私たちの教会に原寸大の十字架を負って世界をま
わっている兄弟がやってきました。ちょうど、夫婦で熊本教会に遣わ される直
前であったので、彼の許しを得て、私も十字架を担わせていただきました。
 案の定、ずしりと来ました。やはり重いです。しかし、十字架の下の部分には
タイヤが付けられていて、それが回るにつれ、何とか前に進むことがで きまし
た。まっすぐに進むなら、この十字架は、担えないものではありません。ところ
が、向きを変えてみようとすると、取り回しが大きくて回転する ことができま
せんでした。十字架の正しい担い方は、ただひたすらまっすぐに前進することに
あるのだと知りました。
 マルコの福音書でイエスは、群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せてこう言わ
れました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、 自分の
十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(8章34節)
 これは十字架を担いなさい、という勧めですが、弟子たちだけでなく、全ての
人に向かって語られている言葉です。私たちにはそれぞれ負うべき自分 の十字
架があるのです。
 しかし、重さや苦しさの故に、担い始めた十字架を下ろすということもまたあ
ります。ある牧師が証ししていましたが彼は、訓練に耐えかね十字架か ら下り
たそうです。しかし、奥さんは祈り続け、ついに祈り切りました。教会が新しく
なった時、彼は自分が訓練を受け損ねたことに気づきました。
 十字架を下ろしてはなりません。それには報いがあるからです。後の日に、私
たちは十字架を担うことの栄光を見ます。十字架を愛しましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年3月8日号(第822号)より転載—

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