2015年4月11日土曜日

愛すること、従うこと
 私が結婚を決めたのは、結婚がどんなものか、心の中でふに落ちたからです。ある人は、結婚とは、情熱だと言いました。私は、結婚は責任であると考えていました。決めたなら最後まで責任をもって添い遂げる、それが結婚だと思っていました。
 保守的な考えですが、ある老婦人の結婚観を聞き、さらに保守的になりました。彼女は、興味深いことを語りました。「あなたね。女が自分に付いてこいと言っても男が付いてくると思う? 反対でしょう。付いてこいって言うのは男の愛の形で、女はそれを選ぶかどうかよ」
 これで、目が開きました。男と女では愛の形が違うと。それを裏付けるかのように、エペソ人への手紙5章にはクリスチャンの結婚に関することが書かれています。「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい」(22節)「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」(25節)
 両性に求められている愛は違うのです。ある牧師は、愛することはより難しいもので、男性に任せられているものであって、女性は、従うという形でその愛を示すのだと言いました。老婦人の語るところと一致しています。愛は、愛する愛と従う愛があるのです。
 さらに、結婚は、かしらなるキリストと花嫁である教会を指して語られている神の奥義でもあります。花嫁に求められることは、花婿なる夫に従うことです。こういうわけで、愛には愛する愛、従う愛があるのです。ここに調和があり、一致があります。愛する愛がとかく目立つものですが、従うという愛もまた素晴らしいものです。
 
(イスラエル北野)


み声新聞2015年4月12日号(第827号)より転載—

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