2025年8月27日水曜日

 信仰の歩み~私の献身

 大学を卒業した時、中学校の教員に採用されました。父は大喜びで祝ってくれましたが、私の心は決まっていました。教員になるのではなく、神学校に進み、牧師になりたいという願いが強くあったのです。

 だんだんと時期が過ぎ、ついにある日、父に「私は、教師にはなりません。神学校に行き、牧師を目指します。」と打ち明けました。父もうすうす気づいていたでしょう。案の定、怒り、こう言いました。「今、着ている物だけは許してやる。しかし、他の物はみな俺が買い与えた物だ。身一つで出て行け。」

 「ありがとうございます。」。深々とお辞儀をして、父からの勘当を受けました。それは、信仰の歩みのスタートでした。経済もなく、住む家もなく、無茶なことを若さに任せて行ったものだと思います。

 マタイの福音書14章が、その時の私を支えてくれたみことばです。まず、27節に「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」というイエスさまのことばがありました。これは、神から来ていると、恐れるなと、イエスさまは語ってくださいました。

 次に、経済の満たしをどうすればよいかですが、クレイジーなのは承知ですが、まさにペテロと同じことを主に求めました。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」(28節)

 奇跡を主に求めたのです。しかも、主のことばとして、水の上を歩けということばを求めたのです。イエスさまが、水の上を歩けとおっしゃったなら、歩ける。そう信じたのです。お金もない私が生きて行けるしるしを求めました。おぼれて失敗することなく、自然現象に反することが、イエスのことばによって起きるでしょうか。

 イエスさまは、「来なさい。」と言ってくださいました。「そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。」(29節)。何と奇跡が起こったのです。これは、私にとって大きな慰めでした。奇跡が起こるということが書いてあるのですから。

 「ところが、(ペテロは)風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、『主よ。助けてください。』と言った。」(30節)。イエスさまから目を離し、風を、現実を見てしまったペテロは、信仰の世界から現実の世界に戻るのです。するともう、みことばには立てず、現実のままに沈みかけたのです。

 「そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。『信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。』」(31節)。「そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。」(32節)

 神の約束のことば以外何も持っていない私が生きて行けるのか、それは、イエスのことばを信じて水の上を歩くようなものでした。しかし、「できる」とイエスさまは、ペテロを通して語ってくださいました。

 しかし、ペテロはすぐに沈んでいったのです。けれども、私の友人は、「沈みかけた時イエスさまはすぐに手を伸ばして、彼をつかんでくださったではないか。溺れないよう直ちに助けてくださったではないか。信仰の歩みが破綻しそうな時、その時にはイエスさまは直ちに手を入れてくださるのだよ」と私を励ましてくれました。

 それで、勇気を得て、水の上を歩く人生を始めることにしました。神が献身を導かれたのだから、ということで祈りだけで生活の糧を求めました。また、正直に祈りました。「体力がありません。軽い仕事で時給の良い仕事をください」。すると、一件の電話がかかってきて、予備校の教師の職が与えられたのです。十分ではありませんが、水の上を歩く生活はすることができました。

 そして、1年もたたないうちに結婚が導かれ、さらに1年後には牧師夫人となっていました。信仰の歩みは、不確かなもののように見えますが、これほど確かなものはありません。確かに、神は、主イエスは、私たちを支えてくださっているのです。

 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(へブル人への手紙116節)

MIKOE NEWSから転載」 2025年8月27日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年8月20日水曜日

 医者を必要とする者

 次女が、おなかの中にいた時、入院していた病院から56分離れた教会に礼拝出席しようとしたところ、看護師の方々に「無理です。よしなさい」と止められました。それで、聖書を開けてみるとルカの福音書5章から「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」(31節)というみことばが示されました。これは、どういう意味だろうと考え込みました。今なら、入院している病人なのだから、礼拝はお休みしなさいという意味に受け取ることもできるみことばだと分かります。

 ところが、「私は、病人かしら?」とか「お産は病気じゃないわね」とかすっかり惑わされ、神のことばに聞くことができず、礼拝を強行しました。すると、教会からの帰りに出血してしまい、切迫流産で絶対安静を言い渡されました。こんなにはっきりとみことばから語られていたのに、愚かだったと反省しました。

 世の中には、医者を必要とする人々がいます。病人です。医師の治療によらないでは生きることもできない人もいるのです。反対に先ほどのみことばにあるように、丈夫な人というのもまたいます。これらの人には、医者は必要ありません。自分で生きていけます。しかし、私のように医師を必要とする者もまたいるのです。

 イエスさまは、このたとえで、ご自身が医師であることを語っておられるのです。ご自身なくしては生きていけない者たちをご存じなのです。それは、病気に限ったことではありません。もちろん、イエスさまは病をいやしてくださり、医者のような働きをなさいました。しかし、イエスさまが語ろうとしているところは、もっと広いのです。

 ルカの福音書532節にこう書かれています。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」。また、マタイの福音書では「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい」とも書かれています(913節)。

 イエス・キリストは、罪人の主となるために来られたお方です。罪人であるということを知った人々を悔い改めさせ、正しい道に歩ませるために、主イエスは来られたのです。イエスのあわれみは深いのです。罪人をさげすまれません。罪人の医者として、罪の縄目から解放してくださいます。ご自身おっしゃる通り、罪人を招くために来られたのです。

 ヨハネの福音書8章に、姦淫の場で捕らえられた女のことが取り上げられています。律法学者とパリサイ人は、「モーセの律法ではこういう女は石打ちにするよう命じていますが、あなたは何と言われますか」(5節)とイエスに問いました。イエスは、相手をしませんでしたが、彼らがあまりにも問い続けて止めなかったので、一言こう言いました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(7節)

 年長者から始めて一人一人出て行き、イエスさま一人が残されました。イエスさまは、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(11節)と女におっしゃいました。

 こうして、主イエスは罪を赦すという働きをなさっていました。どんな罪も、イエスさまが赦されない罪はないでしょう。赦し、悔い改めさせ、正しい生き方を取り戻させるために、イエスさまは、来られたのです。これが、イエスさまが医者だという理由です。

 ただ、気になるのは「正しい人」です。「正しい人を招くためではなく」(ルカの福音書532節)、と主イエスは言われましたが、果たして「正しい人」なんているのか、それが私の疑問です。「正しい」と思っている人は、イエスの元に来ないでしょう。ですから、「罪人」の自覚を持っている人は、「正しい」人以上に赦され祝福されています。

 「罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」というこの主イエスの恵みをしっかりと心に留めましょう。

 自分を罪人と認める人、自分の弱さを知る人、そして主の元に来る人を主は赦し、助け、用いてくださるのです。病人とは無力で、とにかく医師に頼るしかありません。私たちも、罪に無力な者ですが、イエスさまが私たちをあわれみをもって救い出してくださいます。罪人の主と語られた主は、私たちを悔い改めさせ、神に立ち返させるために世に来られたのです。

MIKOE NEWSから転載」 2025年8月20日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年8月13日水曜日

イザヤの召命

 イザヤ書6章で、イザヤは神々しいまでの幻を見ました。彼は高く上げられた王座に座している主を見ました。その裾は神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていました。セラフィムにはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔を覆い、二つで両足を覆い、二つで飛んでおり、互いに呼び交わして言っています。

 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。

 「その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。」。4節にはこう書かれています。圧倒的な主のきよさとご臨在をイザヤは見たのでしょう。

 すると、イザヤは言います。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。

 この一文は、原語ではさらに激しい嘆きであるといいます。「ああ、私にはもう望みがない。私は、最低だ。どうすることもできない汚れたものだ。人々は皆神の前に汚れており、私もまた汚れたものだ。ああ、どうして、神の前に立つことができようか。私はもうおしまいだ。私はわざわいだ。」。そんな激しい慟哭なのだそうです。イザヤは神の幻を見たことによって徹底して激しく打ちのめされました。おのれの汚れ、また罪を、王座に座しておられる主を見たことによって、激しく意識したのでしょう。主の前にとても立てない自分を意識しました。

 しかし、イザヤに望みがありました。67節にはこう書かれています。「すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。
 『見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖(あがな)われた。』

 神は、燃えさかる炭をセラフィムを遣わして、汚れに満ちたイザヤの口に触れさせました。そのことによって不義に満ち、どうしようもなく汚れて、罪に満ちたイザヤのくちびるは贖(あがな)われたのです。

 その時、イザヤは主の声を聞きます。「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう

 そこでイザヤは、声を聞いて応答します。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」。すると、主はイザヤに「行って、この民に言え。」から始まることばを下さり、イザヤを預言者として用い始めてくださったのです。

 イザヤが立てられるまで、彼がどん底と言えるような所を通ったことを忘れないでください。大きな働きの前に神は、しもべを本当に低くされます。いかに自分が汚れた者か教えられるのです。

 イザヤは自分に絶望していました。しかし、それが神のご計画であり、恵みであったのです。神は祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭をもって、イザヤの口に触れたのです。それによって、イザヤの不義は取り去られ、罪も贖われました。そして、預言者として応答することができました。

 どんなに自分に絶望することがあっても、唇の汚れた者であっても、神は神の方法をもって、ここでは炭を持ってきよめてくださいました。私たちも、この目で神を見る時、その聖なる姿に、もう自分は駄目だ、とどん底に下る時があります。とことん低くされますが、実はそれこそが神の召命であり、神はそれを通して私たちを立て上げてくださるのです。

 イザヤは、働きに立つ前にとことん自分の汚れを見せられました。しかし、神は、そのイザヤをきよめてくださり、召し出すことばを下さったのです。ですからあなたも、とことん自分に失望する時、その時こそ、神の召命の時と知りましょう。

 神は低くされたあなたを、神の御前で高く用いてくださいます。 

MIKOE NEWSから転載」 2025年8月13日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2025年8月6日水曜日

 教会のとりなしの祈り

 先日、親しい方々と近況を分かち合いました。私の順番が来た時、87歳になる母のことを話しました。少し認知症的なものを感じる状態です。よく忘れるし、毎晩読んでいる詩篇においても、以前は感想を述べていたのに、黙っていることが多くなりました。分かっているのかどうか、判断に苦しみました。また、急に怒りっぽくなったり、他にも冷蔵庫を開けて食物を取ることもしていないそうです。老いは誰もが通る道。でも、いつまでも壮健でいてほしいものです。最低限の生活が自力でできるよう求めました。

 すると何名もの方が尋ねてくださり、「お母さんはどうですか?」と声を掛けてくださったのです。「お母さんにはお世話になったから」と言ってくださる方もいて、母のことを心にかけてくれました。そして、祈りをささげてくださったのです。

 びっくりしたのは私です。それ以降、母の認知の症状がはっきりと良くなったのです。詩篇を読むと、以前のように、「ほんと、詩篇には力があるわね」と言い始めたのです。「このことについてはどう思う?」という問いに関しても、「こうしたらどう?」という答えが返ってくるようになりました。

 これは、とりなしの祈りの力、教会の祈りの力であると思います。神は、私たちの祈りを地に落とすことはされないのです。必ず、祈りは、芽が出て成長し、実を結ぶのです。母の一件を通して私は祈りの力を学びました。

 これは、奇跡だと思います。とても思いもできなかったほど明瞭な意識が与えられているのです。祈りが奇跡を起こしました。教会の祈りには、大きな力があるのです。

 使徒の働き12章には、興味深い記述があります。ヘロデ王がヤコブを殺した後、次にペテロを捕えて牢(ろう)に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させました。(中略)こうしてペテロは牢に閉じ込められていて、教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていました。

 「ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。

 すると突然、主の御使いが現れ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、『急いで立ち上がりなさい』と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。

 そして、御使いが、『帯を締めて、くつをはきなさい』と言うので、彼はそのとおりにした。すると、『上着を着て、私について来なさい』と言った。

 そこで、外に出て、御使いについて行った。彼には御使いのしている事が現実の事だとはわからず、幻を見ているのだと思われた。

 彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。そこで、彼らは外に出て、ある通りを進んで行くと、御使いは、たちまち彼を離れた。

 そのとき、ペテロは我(われ)に返って言った。『今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ。』

 こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。」(使徒の働き122節~12節)

 聖書の中でも、これほど教会の祈りが聞かれた例は特筆されるべきものでしょう。教会のとりなしの祈りを通して、神は御使いを送り、奇跡の手をもって、祈られていた通りに、神はペテロを助けられたのです。

 祈りには力があります。祈りは神の手を動かします。また特に、教会の信者たちが心を一つにして祈るその祈りは必ず応えられます。祈りは気休めなどではありません。奇跡が起こるのです。祈りは強力な確かな武器なのです。祈りが満ちる時、御使いさえも差し向けてくださるほど、神は私たちの心からの祈りと願いに応えてくださるのです。

 あなたのとりなしの祈りも、必ず聞かれると知ってください。それゆえ、信じ祈りましょう。

 MIKOE NEWSから転載」 2025年8月6日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/