2024年4月24日水曜日

 従ってなお窮地に陥る時

 多くの人がよく、問題が起こってきた時、それを神とサタンの戦いというふうに捉え、そのように口にします。けれどもこれは、大きな間違いです。そもそも神とサタンを同列に挙げているところからして、間違っています。神は絶対者であり、サタンは堕天使で、神による被造物です。サタンは神の許しなくしては何もできません。例えば、サタンはヨブ記のヨブを打ちました。しかし、それも神が許す範囲の中でのことで、サタンがヨブの命を取ることは許されていませんでした。

 サタンは、神の計画を阻止しようとありとあらゆる手段を用いて働きます。パウロもテサロニケ人への手紙第一218節でこのように書いています。「それで私たちは、あなたがたのところに行こうとしました。このパウロは一度ならず二度までも心を決めたのです。しかし、サタンが私たちを妨げました」。サタンは神のみこころを妨げるのです。サタンの攻撃が強い時ほど、神の素晴らしいみわざが現されるというのは理にかなったことなのです。

 私たちの教会では海外宣教を行っています。ところが、ある時チームリーダーが、パスポートやチケットの入ったバッグを電車の中に置き忘れてしまい、宣教に行けない事態になりました。失意のどん底に陥ったことでしょう。しかし、感謝の祈りがささげられ、翌日一日遅れで目的地に着くことができました。

 そして着いた後、車に乗り込むと、今度はそこで突然聖霊が「今、リコンファームに行きなさい」と語られたそうです。そこでそう告げると案内する人は「まず、ホテルに行ってからにしましょう」と言い、取り合ってくれなかったそうです。しかし聖霊が語るので、半ばけんかになることを覚悟して、強くリコンファームに向かうよう押したのです。

 そして、リコンファームをする場所に着くと、なんとその時、まさにそのタイミングで後に大きな関係となる人物と出会ったのです。まさにこれがみこころ中のみこころでした。私は、リーダーがバッグを失くしてしまったことは、行くべき所に行かせまい、会うべき人と会わせまい、とするサタンの妨害であったと思いますし、リコンファームの件も真に主に従うということにおける試しであったと思っています。重要な事柄が開ける際には必ずサタンはそれを妨害するよう働きます。

 ところで、話は変わりますが、イエスさまはその公生涯の初めにバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられました。すると、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分に下ってくるのをご覧になられました。その直後、マタイの福音書41節にこう書かれています。「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた

 ここで注目していただきたいことは、御霊に導かれて荒野に行かれたということです。サタンは荒野でイエスを誘惑し、後に現されるイエスの救いの働きをさせまいと策略を持ってイエスを試しました。これはサタンが仕掛けたわなではありますが、御霊に導かれたというだけのことがあり、かえって主イエスが救い主としてふさわしい方であることを証明する結果になりました。

 私たちにおいても、サタンの働きが許されます。特に大きな恵み働きの前には必ず妨害が許されます。多くの人はそれを見、恐れます。でも、それを許しているのは神であって、主の御霊の主導の中で起こっているということを忘れてはなりません。

 私たちには、神に聞き従って、なお窮地に陥るということが許されます。しかしそれは、しるしと奇跡を伴った神の素晴らしいご栄光と勝利の現れのためであり、神の許しなくしては、サタンは何ひとつ災いを起こすことができないのです。そして、そこには深くて高い神の計画があります。イザヤ書にはこう書かれています。

 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。-主の御告げ- 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ書558節)

 今、この時にも主は働いておられます。それゆえ、何も恐れることなく神を信頼し、またすべての事を感謝いたしましょう。主はすべてを益と変え、初めから用意されていたご自身のご計画を必ず成し遂げられるからです。恐れるべきお方は神おひとりです。サタンではありません。それゆえ感謝をもって主の勝利をほめたたえましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2024年4月24日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年4月18日木曜日

アブラハムは信じた

 かれこれ20年になるでしょうか。稚内教会設立のための準備で、家族で何度も稚内に通いました。聖会は夜なので、帰りは真夜中になり、辺り一面真っ暗になります。すると、星が瞬くのです。あまりにもきれいなので車を止めて、家族全員で外に出て天を見上げました。天の川は雲のように煙って見え、降り注ぐばかりのたくさんの星が天を覆っていました。

 私たちは誰彼となく創世記15章を想起していました。5節で神は、アブラム(後のアブラハム、以下アブラハムで統一)を外に連れ出して言われました。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる

 既に老人であり、子もないにもかかわらず、アブラハムはこのことばを信じました。神のことばを信じ、そのことばが成就することを堅く信じたのです。同6節では「彼(アブラハム)は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と書かれています。さらっと書いてありますが、ここに信仰の奥義が詰まっています。

 アブラハムは何か特別なことをしたわけではありません。ただ自分の状況よりも神のことばを優先させて、神のことばに立ったのです。ただ信じた、それだけのことです。しかし、それだけのその信仰を神は義(正しい)と認められたのです。神が私たちに求めておられるのは、ただ一つ。信じることです。

 それはまた、神の知恵でもあります。なぜなら、信じることは誰であってもできるのです。富んだ者も貧しい者も、老いも若きも、信じることにおいては等しいのです。それゆえ神はすべての人を救うにあたって、信仰という手段を用いることを選ばれました。アブラハムが「信仰の父」と呼ばれているのも、彼が神のことばを信じ、栄光を見たからに他なりません。

 信仰の素晴らしいところは、信じたなら必ず信仰は実を結ぶことです。確かに成就に至るまでは、試しや忍耐が許されます。しかし、信仰の種を蒔(ま)くなら、必ずそれは芽を出し、育ち、やがて実を結ばせます。信じることは神の働きにあずかるための確かな一歩です。

 冒頭に戻りますが、アブラハムは空の星を見て、子どものいない彼に、あなたの子孫はこのようにおびただしくなる、と約束された神を信じました。アブラハムはそこで、現状ではなく神のことばの方を受け取ったのです。これが信仰です。

 信仰が現れた今、私たちもまたアブラハムと同じように現状を超えた信仰による祝福を受けることができます。神のことばは、信じることによって実を結びます。ですから、信じることはとても大切です。不信仰からは何も生まれません。しかし、信仰は現実を超えた働きをするのです。まさに信仰は生きているのです。

 私は、イエスさまを信じるようになって41年になります。この間、多くの患難困難がありました。けれども、神への信頼が失望に終わったことはただの一度もありません。確かに試しがありました。しかし、どんなに試されても神のことばを信じる、その繰り返しによって信仰が立て上げられ、時至って神のことばは成就しました。信仰こそ神の目にかなうあり方であり、それは神の手を動かすのです。

 ローマ人への手紙4章にはこのように書かれています。「彼(アブラハム)は望みえないときに望みを抱いて信じました。彼は、不信仰によって、神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰(き)し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです」(182022節抜粋)。望みえない時にアブラハムは信じました。あなたは、どうですか。神とそのことばを信じてみませんか。望みえない時こそ信仰を働かせる絶好の機会です。

 どうかイエス・キリストをあなたの救い主として、心にお迎えください。主はあなたにも、信仰による勝利と奇跡のみわざを現してくださいます。 

MIKOE NEWSから転載」 2024年4月18日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年4月10日水曜日

神によって立て上げられるのです

 聖書には、数多くの神の器(神が用いる人)が登場します。アブラハムやモーセ、ダビデなど、挙げれば切りがありません。彼らは偉大な神の器として知られ、数多くの信仰によるみわざを聖書に残しています。

 彼らは神の器です。しかし、当然のことですが初めからそうであったわけではありません。聖書は、彼らの駆け出しの頃の、弱さや失敗も包み隠さず記しており、彼らもまた、私たちと同様の罪や弱さを持つ人間であることが分かります。

 創世記12章で、アブラム(後のアブラハム)はききんのために、しばらくエジプトに滞在しようとしました。その地に入ろうとした時、彼は妻のサライに懇願します。「おまえは見目麗しい女だから、私の妻だと言えばエジプト人は私を殺しあなたを生かしておくだろう。どうか私の妹だと言ってくれ。そうすれば、私に良くしてくれ、おまえのおかげで私は生きのびるだろう」。アブラハムは必死になって自分を救おうとしたのです。信仰の人とは程遠い姿ではないでしょうか。

 モーセは、同胞であるへブル人をエジプト人が打っているのを見て、ひそかにエジプト人を殺します。翌日、二人のへブル人が争っているところに出くわし、悪い方に「なぜ自分の仲間を打つのか」と言ったところ「エジプト人を殺したように、私も殺そうと言うのか」という答えが返ってきて、命を救うため、ミデアン人の地に逃げました。このことを聞いたパロ(ファラオ)が彼を殺そうとしていたからです。後年パロの前に立ち、出エジプトを導いた人物とは思えないほど、弱さや恐れでいっぱいでした。

 ダビデもまた、自分の命を救うために気が変になったふりをしました。サムエル記第一21章で、ダビデはサウルから逃れ、ガテの王アキシュのもとに身を寄せます。ところが、家来たちがこれは「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と歌われていたあの戦士ダビデではないか、と言います。恐らく、ダビデが寝返って自分たちの敵になることもあるのではないかとアキシュに進言したのでしょう。その言葉を非常に恐れたダビデは、気がふれた者を装いました。門の扉に傷を付けたり、ひげによだれを流したり、なりふり構わず自分を救うために気がおかしくなったまねまでしたのです。たった1人でゴリアテに立ち向かったあの勇ましさはどこに行ったのでしょう。

 アブラハムにしろ、モーセにしろ、ダビデにしても、追い詰められると人は自分を救おうとしてとんでもない行動に出るものです。けれども神は、このような弱さや恐れでいっぱいの彼らを、時間をかけて神の器として立て上げてくださいました。

 共通するのは、彼らが神を愛し神を恐れたところにあります。神を恐れること、これが彼らが選ばれた理由であったと私は思います。心をお造りになった方は、人の心を読み取られます。彼らは神を愛しまた恐れ、生涯それは変わりませんでした。

 アブラハムは試みの時、イサクをささげ、そのことによって神を恐れることが明らかにされました。モーセは、全イスラエルをエジプトから連れ出し、荒野で彼らを養いました。神はモーセとは顔と顔を合わせて話されました。モーセもまたへりくだって神を恐れる人物であったのです。ダビデに至っては、姦淫と殺人の罪を犯しました。しかし、それを指摘されると即座に「私は主に対して罪を犯した」と悔い改めます。すると「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない」と、直ちに、罪を赦してくださいました(サムエル記第二1213節)。確かに罪を犯しましたがダビデは主を恐れる者であったのです。

 彼らの、主への恐れこそ神のしもべと呼ぶにふさわしいものです。歴代誌第二169節にはこう書かれています。「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです

 アブラハムやモーセ、ダビデは数々の栄光を現しました。しかしそれは、彼らが成したのではなく、神が彼らを立て上げ、わざを成し遂げられたのです。神が見ておられるのは心です。私たちは、誰一人として自分の力によって神の器になる者はいません。それは、召されてなるものであり、主とひとつ心になる時、主の御力の現れが働き、ご栄光が現されるのです。

 私たちは神の栄光を盛る土の器に過ぎません。アブラハムやモーセ、ダビデが弱さや失敗の中から立て上げられたように、主はあなたをも立て上げ、ご栄光を現してくださいます。神の働きは往々にしてふさわしくない者が選ばれます。器だからといって誇れるものは何もありません。でも、もしあなたの心に、すべてをささげて主に献身する思いがあるなら、どうかそれを大切にしてください。そして、立て上げてくださる主の御手に信頼を置きましょう。主はあなたを用いて大きなご栄光を現してくださいます。 

MIKOE NEWSから転載」 2024年4月10日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年4月3日水曜日

塩が塩けを失ったら

  塩は、お料理に欠かせないものです。最近でこそおにぎりを家庭で作ることは少なくなりましたが、お母さんがその手で握ったおにぎりは、塩味が抜群で、何の具も入れなくてもとてもおいしいものです。また、フライドポテトや粉吹き芋も塩味が味の決め手となります。魚を焼くにも塩少々を振ります。味を引き締め腐敗を防止し、清めともなって、塩は私たちの生活の中でなくてはならないものです。

 イエスさまは、マタイの福音書で「あなたがたは、地の塩です」(513節)と語られました。クリスチャンは、主イエスの十字架によって世から贖(あがな)われた者であって、神の子です。内側に聖霊さまが内住されていて、世にあっても世の者ではありません。救いにあずかっているので、真理のためなら何でもできます。でも悪事に加担すること、すなわち罪の道に歩むことだけはできません。神の御霊がそれをお許しにならないからです。そしてそれが、世にあって塩けとなっているのです。

 テサロニケ人への手紙第二2章は、霊によってでも、ことばによってでも、主の日がすでに来たかのように語り、それをあおる者たちに対して、パウロが見解をただした書簡です。まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ない、とした上でパウロは語ります。

 「彼は、すべて神と呼ばれるものに反抗し、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現れるようにと、いま引き止めているものがあるのです。不法の秘密はすでに働いています。しかし、今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。その時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます」(468節抜粋)

 不法の人とは反キリストです。彼の到来を引き止めている者、これが私たちクリスチャンの存在ではないかと私は考えています。テサロニケ人への手紙第一4章には、「携挙」のことが書かれています。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです」(1617節)というのがそれで、神が定められたその日、用意のできたクリスチャンは、一挙に天に携え挙げられます。これを携挙と言います。

 携挙が起こったら、もはや不法の人の出現を引き止めるようなものは無くなるでしょう。サタンの働きによって反キリストが立ち、世はまっすぐに終末へ滅びへと向かうでしょう。そして、このような時代はすぐそこまで来ています。

 イエスさまは言われました。「塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい」(ルカの福音書143435章)

 クリスチャンは地の塩として、神に用いられています。世から贖われたことがその特徴で、世に対しては死に、神に対しては生きています。彼らを贖われた十字架の主に従い、その信仰によって、神の栄光を現しています。その生き方を貫くなら、その存在は地の塩となり、神はあなたを用い、ご自身のみわざを現してくださいます。しかし、主に対する信仰と塩けを失くしてしまったらどうなるでしょうか。何の役にも立たず、外に投げ捨てられるのが落ちだというのです。

 私たちから、信仰を取ってしまうと残るものは塵(ちり)や芥(あくた)です。何の役にも立ちません。それゆえ、主への信仰と信頼を決して手放してはなりません。地の塩として、信仰に生きる人生を全うしましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2024年4月3日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/