2023年9月13日水曜日

天での報い

 日本人は、独特の美意識を持ち、その中の一つに見返りを求めないで事を行うという美徳があります。報いを求めて事を行うなんて下心があるようで尊くない、と思うのでしょう。

 ところが、聖書を読んでみると、はっきりと天での報いということが書かれており、この報いを得るためにあらゆる場面で耐え忍び、この世のものを捨てても天での報いに生きるよう推奨されています。

 例えば、へブル人への手紙11章にはこのように書かれています。「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです」(2426節)

 天での報いは求むべきものだと、イエスさまも教えておられます。マタイの福音書104142節にはこう書かれています。「預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません

 また、反対に報いを失った人のことも書かれています。マタイの福音書2530節に「役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです」と書かれています。受けるはずであった報いを失うことはどれほどの悔やみとなるでしょうか。私たち人間は、終わりの日に神のさばきの座に立つのです。そして、おのおの生前に行ったあらゆることについてさばきを受けます。そこで神の前に、正しい人は報いを受け、そうでない者は、退けられるのです。

 この信仰すなわちキリスト教は、多くの殉教者を出しています。老いも若きも信仰を守り通して殉教しました。なぜ、彼らは命を捨てたのでしょうか。それは、天での報いを見ていたからです。殉教者たちはモーセ同様、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝に勝る大きな富と思ったのです。たといこの世の命を失ったとしても、永遠のいのちが神によって与えられています。彼らは、殉教の報いを天での報いを、信仰によってはっきりと見ていたので揺らぐことはありませんでした。

 そして、神さまもまたこのような信仰に応えてくださいます。キリストにあって私たちはもはやこの世に属するものではありません。神が私たちの父であられ、父は永遠に至るものをもって私たちのために報いを用意しておられます。天での報いをしっかりと見つめ、寄留者としてこの地上での生涯を全うしていきましょう。 

MIKOE NEWSから転載」 2023年9月13日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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