2023年5月18日木曜日

いやしと信仰

 いやしと信仰は密接な関係にあります。いやしが働くには、ベースに信仰があるかないかは大きな違いとなります。また、一口にいやしと言っても、病が原因であるものと、悪霊によるものとがあります。その場合はそれぞれ対応が異なります。

 宣教においてイエスさまは、人々への救いの証しとして、各地で数多くのいやしをなされました。ところがマタイの福音書13章によれば、イエスさまがご自分の郷里に来られた時、人々はイエスさまを、あれはあの大工の息子のイエスではないかと言い、イエスさまにつまずきました。救い主としてまたいやし主として、主イエスを認めることができなかったのです。イエスさまは「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです」と言い、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかったと聖書は記録しています。(5458節参照)

 とはいえ聖書は、私たちがいやしに至る信仰を持つことができるよう、イエスさまが助けてくださっている様子も記載されているので、自分を見て失望する必要はありません。

 マルコの福音書9章に、おしとつんぼの霊につかれた男の子のことが取り上げられています。この子は、幼い時から悪霊につかれ、八方手を尽くしましたが良くならず、やっとのことでイエスのもとに行き着きました。イエスさまは、「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか」とお父さんに尋ねました。「幼い時からです。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください

 こう語った次の瞬間、イエスさまはお父さんを叱咤(しった)しました。「できるものなら、というのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」。それを聞くとお父さんは、なりふり構わず叫びました。「信じます。不信仰な私をお助けください」。イエスさまは、わざを行うにあたって、お父さんの信仰をまず立て直すことを必要とされたのです。霊は出て行き、男の子は解放され、いやされました。お父さんもまた長い苦しみからいやされたのです。

 また、マタイの福音書92730節で、2人の盲人がイエスにあわれみを請うた時、イエスさまは2人に「わたしにそんなことができると信じるのか」と言いました。盲人たちが「そうです。主よ」と言うと、イエスは彼らの目に触って「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言い、その時から彼らの目が開きました。主は、確かに信仰とともに働かれるのです。

 いやしの信仰を持ちましょう。仮に持っていないと思っても、諦めてはいけません。神さまに求めましょう。私たちの信仰は、神が与え、支えてくださっているのでむなしく地に落ちることはありません。私たちの信じた通りになるのです。
 病には失望と忍耐がつきものです。長く待たされると、やがて信仰も枯渇してしまいます。ですからイエスさまは、あるいは叱責され、あるいは「わたしにそれができると信じるのか」と問われたのです。そして、私たちはそのイエスさまのことばによって奮い立ち、いやしに至らせる生ける信仰を取り戻すことができたのです。

 へブル人への手紙に「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(111節)という一文があります。信仰は目にこそ見えませんが、生きて働くものであり、受けたと信じるその信仰は奇跡を刈り取らせます。いやしもまた同様で、私たちの内にいやされる信仰という実を結ばせます。主イエスに信頼しましょう。主は最善をなしてくださいます。

MIKOE NEWSから転載」 2023年5月18日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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