2020年1月15日水曜日

さばくことができますか

 ヨハネの福音書8章で、姦淫(かんいん)の場で捕らえられた女性がイエスさまの所に連れてこられました。イエスを告発しようとたくらむ律法学者パリサイ人は、律法によればこの女は石打にするよう命じられていますが、あなたは何と言われますか、とイエスに問うてきました。
 イエスさまはまったく取り合いませんでした。しかし、彼らが問い続けてやめなかったので、ひと言、「あなたがたのうちで罪のないものが、最初に彼女に石を投げなさい」と言いました。すると、年長者から始めて、ひとりひとり出て行き、イエスさまひとりが残されました。イエスさまは「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」と言ってくださいました。
 罪に定めるということは難しいものです。というのは罪に定めたその人も、同じように罪の下にあるからです。イエスさまは、姦淫を犯さなくても、情欲を抱いて人を見るなら、それは同じ罪を犯していると言いました。人をさばくなら、さばいたあなたも巡り巡って同じ罪の延長線上にいると知るのです。
 こういう訳で、真に人をさばくことができるのは、イエスさまおひとりです。また、私たち日本人は罪に対して大きい小さいと区別します。そして、大きい罪は赦されにくくて、小さい罪は見逃してくださる、そう考えがちです。しかし、罪というのは神の前にあるかないかどちらかで、大きい小さいで区別されるものではありません。
 誰であれ、悔い改めるなら大きな罪も小さな罪も等しく赦されます。それ故、時に罪人をねたむようなことも起こります。あの人はあんなに大きな罪を犯したのに赦されるなんてとわが身を忘れてさばくこともあります。それに対してはただ一つ。神を恐れましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年1月19日号(第1077号)より転載—

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