2016年10月18日火曜日

 
 病人の心というものは、往々にして屈折してしまうものです。青年期に私は病気で半年ほど入院したことがあります。それはつらかったです。体の具合もさることながら、私の心は、病を許された神さまのお心が知りたいと求めるのですが、神は沈黙を守られるのです。
 とはいえ、私は恵まれている病人でした。見舞いに来てくれる人がいたり、教会によるとりなしの祈りがあり、ありがたいことでした。しかし、それにもかかわらず私は心の屈折をどうすることもできませんでした。その結果、何名かの方々の言葉は、上から目線で、あたかも私が罪を犯しているからこの災いが起こるのだと責められているかのように、感じてしまいました。
 聖書にヨブ記という巻があります。ヨブは義人でした。サタンは「ヨブが義人なのは、神さま、あなたが守っているからです。」と言い、ヨブを打つことの許可をもらいました。こうしてサタンはヨブの財や家族を打ちました。しかし、ヨブは愚痴を言わず「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(1章21節)と語り、罪を犯すようなことはありませんでした。
 するとサタンは、命に関わることならヨブはあなたをのろいましょう、と言い、サタンは足の裏から頭の頂きまで悪性の腫瘍でヨブを打ちました。その痛みは余りにも大きく、慰めに来た友人は7日7夜絶句しました。
 ヨブに許された病の試練は大変なものでした。しかし、やがて終わる時が来ます。ヨブは、試練を通してさらに神を知る者となり、また主は、2倍の祝福をもってヨブに報われました。
 私たちの人生にもいろいろな試練が許されます。神さまに信頼しましょう。神さまはすべてを祝福に変えられます。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年10月16日号(第906号)より転載—

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