2015年8月22日土曜日

教会につながる
今となっては若気の至りですが、救われた当初私は18歳で、自分の信仰は強いものに見えました。
 ところが、ある日試練がやってきました。病気で長期入院するという事態になったのです。救われてこのかた、毎週の礼拝を欠かしたことはありません。しかし、入院となると礼拝に行くことはできません。いきおい一人で礼拝を守ることになってしまいました。
 人通りのない非常階段に行き、祈りから始め、聖餐こそありませんでしたが、賛美をし、献金をささげ、信仰書を読むことを説教とし、病床での礼拝を守りました。最初はそれで良かったのです。
 ところが3カ月くらいたったころから何やら雲行きが怪しくなりました。ご臨在が来ないのです。知らぬ間に好き勝手な礼拝になってしまい、最後の方はその形すらも曖昧で捉えることができなくなり、いつの間にか礼拝の実質から離れてしまいました。
 ヘブル人への手紙1025節には、「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」と書かれています。
 いっしょに集まることの重要性をこの一節は教えています。自分独りの信仰はアップダウンするものですが、教会の礼拝や祈祷会は皆が集い、共に祈り、信仰を分かち合うので、信仰の不足も知らぬ間に増し加えられていきます。教会の恵みもそこにあります。
 幸いなことに今はIT社会になりました。ネットでの礼拝を守ることができる時代です。教会のカバーの下でネット礼拝も等しく同じ恵みにあずかることができます。これは大きな祝福です。教会につながることを求めてまいりましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年8月23日号(第846号)より転載—

0 件のコメント:

コメントを投稿