2013年3月8日金曜日


人 生

 ある時、私は病気で「今もう死んでゆくのだ」という境地に置かれたことがあ
ります。
 天国へ行くことには、疑いがありませんでしたが、自分は生まれてきて、一体
何をしたかと考えると、こうだと言えるものは一つもありませんでし た。結局
は好き放題をしただけで、自分は人生を無駄に使ったというとてつもない悔いが
こみ上げてきました。
 今まであくせくしていた人との対立や問題が、死を前にすると途端に、遠く小
さな問題に見えました。もっと時間をください。みこころを行わせてく ださ
い、私は懇願しました。
 以前もお話しましたが、末期ガンのご主人が、ある時クリスチャンの奥さんに
言ったそうです。自分はもう長いことがないから、今のうちに言ってお きたい
ことがあるなら言ってくれ。奥さんはちょっと考えてから、思い出を語りまし
た。あの旅行は楽しかったね、などと。ご主人は、そうかそれだけ か、そう
言ってこの話は終わりました。
 ご主人が亡くなってしばらくして、ある日奥さんははたと気づきました。自分
は夫に福音を語っていなかった。夫が話しかけてきたあの時が語る機会 だった
のだ、そう気づいたそうです。その悔いたるやいかばかりでしょう。
 人にはそれぞれ神がくださる「召し」があります。幸いなのはご自身の人生の
中で召しを全うした人です。
 ヨハネの福音書6章27節には「なくなる食物のためではなく、いつまでも保
ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」と書かれています。
 私たちの人生は、食べて寝ることに終わってしまうものではありません。福音
を信じ本当に価値ある人生を生きましょう。それは、神とともに生きる 人生で
す。 (イスラエル北野)

 み声新聞2013年3月10日号(第718号)より転載—

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