2012年2月5日日曜日

聖なるということ

聖なるという称号は、神こそ受けるにふさわしい言葉です。
イザヤ書6章で、イザヤは御父の栄光を見ました。その裾は神殿に満ち、セラフィムが高き所に立って、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その 栄光は全地に満つ」と互いに呼び交わしていました。
それを見てイザヤは、「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、 この目で見たのだから」と語りました。イザヤは、天の光景を見たのです。それは聖なるものでした。
歴代誌第一13章にウザという人物が登場します。ウザは主の聖なる神の箱を運ぶ車の御者でしたが、キドンの打ち場に来た時、牛がそれをひっくり 返しそうになったので、手を伸ばして、箱を押さえました。すると、たちまち主の怒りがウザに向かって燃え上がり、彼を打ちました。ウザはその場で 神の前に死んだ。そう書かれています。
神の箱は、最も聖なるもので、レビ人、特にケハテ族以外は、運ぶことを許されていませんでした。たとい善から出た行為であっても、領域を越えて 神の神聖を侵すことはしてはならないのです。
神が聖であることは、神は絶対だということでもあります。神聖を侵すものは誰であっても、神の御前で断たれてしまいます。
それ故、神は御子イエス・キリストを送り、その十字架による贖いを成し遂げてくださいました。私たちが神さまに近づく道はこの十字架以外にありません。十字架を通して近づく者を、神さまはご自分の子として受け入れ、多くの恵みで満たしてくださいます。聖なることは力です。神を恐れましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年2月12日号(第662号)より転載—

0 件のコメント:

コメントを投稿