2023年8月23日水曜日

ことば~運用編

  ヨハネの福音書11節。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった

 私たちは普段何気なくことばを使っています。しかし、ことばは被造物の中で人間だけに与えられている特権です。また一口にことばと言っても、ことばには霊的な段階があり、その頂点は神です。ことばは天地創造の初めからあるもので、ことばによって万物は成り、ことばは神です。バベルで散らされて以降、人の語ることばは不完全なものになってしまいました。けれども、それでもことばは生きており、神の手が動きます。

 ことばと心は密接な関係にあります。よく、人は心に思ったことを口にするものだといいます。それは本当で、ヤコブの手紙311節にはこう書かれています。「泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか」というもので、良い心からは良い言葉が出ますし、悪い心は悪い言葉を口にするのです。

 ことばは、人を殺し、また生かしもします。ことばは、人を失意のどん底に落とすこともできれば、希望を与え、立ち上がらせることもできるのです。ある時神さまが、悩んでいる女性に慰めのことばを掛けるよう導かれました。特別なことを語ったわけではありません。しかし、語った瞬間、女性の顔がパッと明るくなりました。これを見て、神が与えてくださることばには力があること、それが、いのちのことばであることを私は知りました。

 イザヤ書に「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え」(504節)という一文があります。慰め、励まし、いやし、これらはいのちことばです。これらのことばをもって、互いに人に仕え合うことを神はみこころとしておられます。

 人は、神からいのちのことばを委ねられているのです。私たちは罪人(つみびと)であり、死のことばにつながれていました。しかし、神は、いのちのことばであるキリスト・イエスを私たちに下さり、救いを与えてくださったのです。私たちが、新しく生まれ、いのちのことばを語るようにしてくださいました。

 あなたのことばをもって、神をほめたたえましょう。その口に置かれたいのちのことばを語ってまいりましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2023年8月23日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年8月15日火曜日

ことば~成り立ち編

  残念なことですが、犬や猫には言葉がありません。犬や猫だけでなく、さえずる鳥も、教えた言葉を語るという九官鳥であってもそこには会話はなく、あらゆる動物や生き物は私たちが持っているような言葉を持ちません。しかし、それぞれコミュニケーションの手段は持っているので、人との間においても、同じ生きものの間でも、心は互いに通い合います。わんわんにゃんにゃんで十分分かり合えるのです。

 むしろ、ここで分かるのは、人間が特別な存在であるということです。被造物で、言葉を持っているのは人間だけです。というのも、動物と人間は成り立ちが違うのです。創世記によれば、生き物はみな神のことばによってそれぞれその種類に従って造られました。それをよしとされた神は次いでこう言います。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように」(創世記126節)。こうして「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」(27節)のです。神のかたちとはどんなかたちでしょう。とても興味があります。そして、おそらく、人は神のかたちとして創造されたゆえに、言葉を持つものとなったのではないかと私は考えています。

 言葉がいかに力あるものか、それを逆説的に表しているのが創世記11章にあるバベルの塔事件です。その時まで全地は一つの民で、一つの話し言葉でした。彼らはれんがを造り繁栄していました。そのうちに町を建て、「さあ、われわれは頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから」と塔を築き出したのです。主はそれを見に来られ、「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう」と語り、人々を散らされました(19節)。こういう訳で、今の私たちが使う言葉や民族はさまざまに分かれており、もともとの言葉から比べると、言葉も不完全なものになりました。

 一方、コリント人への手紙第二1224節で、パウロは、恐らくご自分のことでしょう、ある時パラダイスにまで引き上げられました。そしてそこで、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたといいます。天上においてはそのようなことばもまたあるのです。

 また、後に私たちをさばくのもことばによります。イエスさまはマタイの福音書12章でこう語りました。「わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです

 いかに言葉というものが重要なものであるか、これらの箇所から分かるでしょう。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。私たちは罪人(つみびと)ですから、言葉で失敗することは多々あります。しかし、その一方で言葉を通して神の祝福を流すことができるのです。まさに、生かすも殺すも言葉次第です。言葉は、諸刃の剣です。

 イエス・キリストは、完全な神であられかつ完全な人です。そして「いのちのことば」と呼ばれています。イエスさまにあって、信じる者の内には聖霊さまが内住され、このお方がいのちに至ることばをくださるのです。私たちもまた主イエスを信じ、救いに至るこのいのちのことばを受け、また語りましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2023年8月15日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年8月9日水曜日

羊の門

  ヨハネの福音書10章で、イエスさまはご自分のことを羊の門だと語られました。「わたしは羊の門です。わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」(10711節)

 そのことばの通り、今から2000年前、イエスさまは私たちの罪を負って、十字架でいのちを捨てられました。そして三日目によみがえり、私たち人間の贖(あがな)いを成し遂げてくださいました。罪の奴隷であり、やがては滅びるしかない私たちを神はあわれまれ、その愛ゆえに神はひとり子イエスを、救い主として私たちに下さいました。

 私は、他の宗教を経て、18歳の時にこのキリストの福音を信じ救われました。キリスト教はただイエス・キリストを救い主として信じる、それだけで、救われるのです。それに比べてキリスト教の前に来た宗教は、イエスさまのおっしゃる通り、まさに盗人であり強盗でした。何かにつけてお金が絡みました。母とともに入信したのですが1人につき何万円もの供養料を払い、偶像の前に毎日水を上げ、題目を唱え勤行を積むように言われました。まるで宗教の奴隷でした。供養料も供養すべき人も増やされる一方でどんどんお金がかかりました。しかも、そこまでしても救いが約束されるわけでもないのです。今から思うとこれは信心につけこんだビジネスです。好き放題食い物にされたように思います。その時私は16歳でしたが、これからはどんな宗教にも決して心を開くまいと固く誓いました。今考えてみると私は主の羊であったので、もとから彼らの言う宗教とは相いれなかったのだと思います。

 聖書のことば通り、次に来てくださったのが、イエスさまでした。「羊のためにいのちを捨てます」と語られたお方です。イエスを信じるということは、イエスという門をくぐるということです。主イエスの門をくぐると私たちは牧草を見つけます。憩いの中で豊かに養われ、慰めを受け、いやしを受けます。そしてそればかりか、神は、イエスを通して永遠のいのちまでも与えてくださるのです。

 イエスさまは救いに入る唯一の門です。この門を通して私たちは天の祝福にあずかります。私たちは、世の子から神の子となるのです。また、羊は羊飼いの声を知っています。興味深いことに羊は何でも真っすぐに進む習性があります。メーメー言いながら集団で動きますが、羊飼いのつえをちゃんと捉えていて、つえのある所どこまでもついて行くのです。私たちはその羊です。

 世には、世の宗教が百花繚(りょう)乱、至る所に咲き乱れているので、心をそれに向ける人は少なくありません。人を喜ばせることを第一とし、楽しいばかりの宗教もあります。中には、宗教としてのキリスト教は、おとなしくて力がない、そんな見方をする人もいました。しかしそれは神もその御力も知らないのです。

 聖書にはこう書かれています。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」(マタイの福音書71314節)

 狭き門とは、門の幅が狭いという意味ではありません。入るために熾烈(しれつ)な競争があるわけでもありません。あまりも身近な所にあり、人の目を引くようなこともないありふれた門なので、多くの人が素通りするのです。しかし、ここにこそ救いがあるのです。私たちはこの狭き門から入りましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2023年8月9日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年8月2日水曜日

 薔薇(ばら)の花は美しいが棘(とげ)がある。いかにも残念そうに人はそう言います。とげというものは本当に小さなものでありながら、刺すような強い痛みを引き起こします。これさえなかったらどんなに良いだろう、とあの大使徒パウロでさえも、それを嘆きました。

 コリント人への手紙第二127節でパウロはこう語りました。「その啓示があまりにも素晴らしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです

 パウロといえばペテロと並んで、キリスト・イエスの弟子の双璧であり、多くの神のわざを取り次ぎました。これを否定する人はいないでしょう。彼は、神に仕え、第三の天にまで引き上げられ、天の御国について人々が知り得ないような奥義まで知らされていた器であったのです。そのパウロに、神が置かれたのが肉体のとげでした。よほどつらかったのでしょう。パウロは、これを私から去らせてくださいと三度も主に願いました。しかし、神さまは首を縦に振らなかったのです。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」。こうおっしゃいました。

 私たちは弱いのです。いとも簡単にサタンの言葉に乗せられて、高ぶってしまうのです。用いられるうちに次第に神さまが見えなくなってしまい、神さまのご栄光の前に立ちはだかり、挙句の果てには自分を偉大な者だとうぬぼれて肉を誇り始めます。こうならないように、神はパウロに肉体のとげを許されたのだというのです。

 確かに痛いけれど、とげは私に弱さを教えてくれます。自分が肉に過ぎぬ者だということを思い起こさせてくれます。ですから常に神のみ顔を仰ぎ、神のことばを聞くことができます。これこそが、神が与えてくださった祝福なのです。神の下さるものは人の物差しでは測れません。人の弱さは世では歓迎されないものですが、神にあってそれはどれ程の恵みであることでしょう。

 というのも、神の力は弱さのうちに完全に現れるからです。ゼカリヤ書46節に次のように書かれています。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」というもので、権力というのは集団の力を、能力というのは個人の力を言います。そのどちらでもなく、神によるのだということをここで語られています。何かを作るのには力が要ります。しかし、神はそれを力ではなくご自身の霊によってなされるということを明らかにしておられます。それでは、どのようにしてなされるのでしょう。

 それが、弱さなのです。弱さは、神の御力の通り道です。神が業をなされるには、私たちの弱さが必要なのです。ついにそれを悟ったパウロは「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(9節)と告白する者となりました。そして、10節では「私が弱い時にこそ、私は強いからです」とさえ語っています。

 エリート街道まっしぐらで来たパウロは、そのすべてを捨てました。キリストのうちにあるものの素晴らしさを知ったからです。神さまは、あなたの能力を必要とされているのではありません。能力のある人なんてごまんといるでしょうし、そもそもその能力も、もとはといえば神が下さったものではありませんか。

 そこにあるのは愛です。受ける一方の神の愛です。ただ、あなたを愛しているから、神はあなたを通してご自身を現してくださるのです。必要とされているのは、皆さん自身なのです。皆さんの力や能力ではありません。弱さを覚えますか? とげに苦しんでいますか? それでいいのです。神はありのままのあなたを愛しておられます。やがては、弱さがあなたを祝福していることを悟る時が来るでしょう。すべてのことを感謝しましょう。 

MIKOE NEWSから転載」 2023年8月2日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年7月26日水曜日

罪の赦し

 年を取れば取るほど、誰でもその人生に大小いろいろな罪を犯してきたことを心のうちに見出すものです。私たちは生まれながらの罪人(つみびと)で、誰でも人生において一つや二つ忘れ得ぬ過ちがあるものです。わびたいと願ってもその人はもう世にいなかったり、もっとやさしく愛をもって接すればよかった、などと自責や後悔に襲われることもしばしばです。また、子どもであっても罪の支配のうちにあり、いじめの問題は端的にそれを表しています。

 罪にはサタンが働きます。ですから、残虐なことが起こるのです。罪はサタンの餌(えさ)なのです。サタンは、罪に働き、私たちを憎み、あわよくば殺そうとしています。私たちの罪を日夜神に訴えている告発者です。ローマ人への手紙に「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(623節)と書かれています。そのように、罪はその結果として死をもたらすのです。私たちが死ぬのは、それが罪の行き着く先であるからです。しかし、書かれている通り、神はキリスト・イエスにある永遠のいのちを与えるという約束を私たち人類に与えてくださいました。

 ここで私は皆さんに問い掛けてみたいのです。罪は、赦されるでしょうか? 犯した過ちは消えるでしょうか? 多くの人が「いいえ」と答えるでしょう。どう転んでも犯した罪がなくなるということはありません。そんなうまい話ないでしょう。しかし、神を賛美します。ただ一方的な愛と恵みによって神は罪の赦しを人類に下さったからです。

 マルコの福音書2章においてイエスさまは、中風のいやしを求めてきた男に「子よ。あなたの罪は赦されました」と語られました。これを聞いて律法学者たちは、「神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう」とつぶやきました。イエスさまはそれをご自分の霊で見抜いてこう言われました。「人の子(イエスさまのこと)が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために」。そして「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言うと、ただちに男はいやされ、驚く人々の前を出て行きました。イエスさま自らが語られたように、イエスさまには罪の赦しという権威があるのです。(111節)

 それでは、それはどういうふうに赦されるのでしょう。それは、神さまの特別な消しゴムがあって、それで罪や咎(とが)をゴシゴシ消してゆくのではありません。イエスさまを信じることです。神さまは、上から天から私たちを見ておられます。そして、イエス・キリストを信じた人を見るにあたって、神は十字架の主の血潮を通して見てくださるのです。その人を覆っている主を見るので、一片の罪もない者として、神の子として私たちを見、天における一切の祝福を注いでくださいます。罪過の中に死んでいた古い私は過ぎ去り、イエス・キリストにあって新しく神の子として生まれるのです。

 イザヤ書にこう書かれています。「たとい、あなたがたの罪が緋(ひ)のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅(くれない)のように赤くても、羊の毛のようになる」(118節)。たとえどんなに大きな罪であろうと、赦され難いその過ちも、神に帰るなら、神は豊かに赦してくださいます。こういう訳ですから、あなたもまたイエス・キリストを信じ、罪の赦しを受けましょう。 

MIKOE NEWSから転載」 2023年7月26日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年7月15日土曜日

粘り強くあること

 聖書は、私たちに信仰を教え、あらゆるところで信仰を用いることを奨励しています。そして、信仰による大きなわざは、粘り強く祈ることによって起こるとイエスは語りました。

 ルカの福音書11章で、イエスさまは興味深いお話をされました。ある人が真夜中に友達の所を訪ねました。なんでも旅人である友人が、自分の所に訪ねてきたにもかかわらず、出すものがないというのです。それで、君、パンを三つ貸してくれないか、と友人に所望したのです。それに対して友人は「めんどうをかけないでくれ。もう戸締りもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない」と言います。友人とはいえ寝ているところを起て何かをするという労を取ることはしませんでした。

 しかし、イエスさまはこう言いました。「あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう」(58節)

 その通りです。「一念岩をも通す」という言葉があります。あくまで頼み続けるなら、ついには相手も根負けします。皆さんはそこまで祈ったことがありますか。それを私たちは「祈り切る」と言います。祈り切ってしまうなら、祈った通りのものを受けるのはもう確定しているのです。マルコの福音書に「祈って求める者は何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」(1124節)と書かれている通りです。人間関係においてはしつこさは嫌われます。しかし神の前ではそうではありません。これによって後には神の栄光を見るようになります。

 イエスさまはしつこさが何かよく知っておられて、それを祈りに運用することを奨励されたのです。しつこく、あくまでしつこく祈り求めるなら、願いの扉は聞かれるという祈りの原則を教えてくださっているのです。しつこさは、決して諦めません。願い通りになるまで手を緩めません。求めたものを現実に手にするまでチャレンジし続けます。これには脱帽します。約束のものを手に入れるには、しつこさは強力な力であるのです。しつこさも立派な信仰のあるべき姿なのです。

 それが表れているのがヤコブです。ヤコブは兄エサウをだまして長子の祝福を受けました。逃げるようにして母の郷里に身を寄せ、そこで妻子を得、財産を得て、いよいよエサウのいるカナンの地に帰ることになりました。エサウを恐れるヤコブは、夜中密かに家族財産といっしょにヤボクの渡しを渡りました。そして、一人だけ後に残りました。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した、そう書かれています。(創世記32章参照)

 ある人というのは、受肉前のキリストとも言われています。ヤコブはその人と戦いました。それは激しいものであって、その人はヤコブに勝てないのを見てとってヤコブのもものつがいを打ったので、ヤコブのもものつがいが外れました。するとその人は、「わたしを去らせよ。夜が明けるから」と言いました。ヤコブは、「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」とさらに粘りました。

 その人は言いました。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ」と言い、その場で彼を祝福しました。

 ヤコブは一晩中、神と格闘し、勝ちました。去らせよと言うまで格闘をし続けました。このようにあくまで粘り強く求めるなら、神もまた私たちの祈りに答えてくださいます。 

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2023年7月4日火曜日

免罪符

  大学受験を目の前にした17歳の私は、無宗教を自認する私的宗教家でした。ややこしい言い回しですね。多くの日本人がそうであるように、無宗教を自認していながら初詣には神社にお参りに行き、葬儀は仏式で抵抗なく焼香を上げ、結婚式はキリスト教式であげることに何のためらいもないのです。イザヤ・ベンダサンなど多くの批評家はこれを理解することが難しいと、よくこのことを取り上げますが、日本人の宗教観は特殊で特定の宗教を信心している者は稀です。むしろ特定の宗教に入ることはそれに縛られているとして、歓迎されないようにも思われます。

 さて、私が何をしていたのかといえば、それは受験合格のお守りを集めていたのです。神道、仏教はもちろんのこと、JR学(がく)駅の入場券5枚や(ご入学という意味)、高松の動物園の「ナマケモノ」の札なども取り寄せました(怠けても枝から落ちないという意味)。これらを集めて悦に入っていました。本当にそれらが効くと信じていたわけではありません。効けばいいな、くらいの気持ちでした。

 そんな私を見て、ある男性は忠告してくれました。いくつもの神さまに頼ったら、神さま同士がけんかして効かなくなるよ、一つにしておきなさい。しかし、お守りが効くなど実は信じていなかったので、私は聞く耳を持ちませんでした。

 確かに、落ちた大学もありましたから、そういう点では彼の言うことも一理あったかもしれません。しかし、今となれば、少しは霊的なことも分かるようになりましたので、結論から申し上げれば、人が紙に刷ったようなものはしょせんは紙であり、いずれは朽ち果て地のちりとなります。

 しかし、紙で刷ったもので、大もうけしたという話が世界にはあります。「免罪符」です。1515年にローマ教皇レオ10世の名の下に売り出された「贖宥状」(しょくゆうじょう)とも言います。これは、そもそもは、イタリアのサンピエトロ大聖堂の建設費を集める名目で集められたものです。他にも十字軍に服役できない女性や高齢者、病人にこれを買うよう奨励されたという歴史もあります。

 ウィキペディアによると、「贖」は「あがなう」こと、「宥」は「ゆるすこと」を意味し、罪の赦しをお金であがなうということになります。一種の「お札」で、それを買った人は現世の罪が許され、天国に行くことができるとされ、死んだ人のために買えばその人も救われる、とされました。これは教会の莫大な収入になり、教会としてもうまみに酔いしれ、これを手放すことができませんでした。

 しかし、これが聖書的に妥当かどうかは、言うまでもありません。使徒の働き412節には、次のように書かれています。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」。この方とは、もちろんイエス・キリストです。十字架で血潮を流して私たちの贖(あがな)いを成し遂げてくださいました。彼は、約束のメシヤです。

 私たちは罪人(つみびと)で、赦されなければならない人間です。しかし、その赦しは神から来ないと誰からも来ることはありません。ただ十字架の主、この方イエス・キリストによらないでは、罪の赦しも永遠のいのちもありません。そして、ただ主を信じるだけで、私たちは救いにあずかるのです。

 大切なものは、往々にして目には見えません。免罪符には何の力も約束もありません。信仰とはそもそも一人一人、自分が主と向き合って信じるのです。あなたの信仰がいくら強くても、その信仰は他の人の代わりになることはできません。免罪符には救いはありません。それは人から出たものであって、でっち上げで大ウソなのです。ただイエスの十字架の贖いを信じるだけ、それだけで私たちは、罪の赦しを受け、救いを得るのです。十字架のイエスこそ本物です。イエス・キリストを信じ、真の救いを受けましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2023年7月4日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/