2016年7月19日火曜日

父の愛
 ルカの福音書15章に「放蕩息子のたとえ」と呼ばれる箇所があります。
 放蕩息子は、父が存命中にもかかわらず、身代を分けるよう求め、それらをまとめて、遠い国に旅立って行きます。そこで放蕩の限りを尽くし、ついには食うにも困るようになり、父の所へ向かいました。雇い人の1人にしてもらおうと思ったのです。しかし、父は立ち上がって駆け寄り、彼に愛を示し、再び子として彼を受け取りました。
 神さまというお方は、人が罪を犯しても、悔い改め、立ち直ろうとするなら、喜んで赦し、父の愛
祝福をもって迎えてくださるお方なのです。
 ところで、先ほどの放蕩息子には兄がいました。兄は出来が良く、忠実に父に仕えていました。しかし、父が放蕩の限りを尽くした弟のために祝宴を設けたと知って彼は「自分には友人と楽しめと子ヤギ1匹下さったこともない」と憤りをあらわにします。
 父は「私のものは全部おまえのものだ」と言ってくださいました。兄は子ヤギだろうが、何だろうが、自分の物だからほしいままにできたのです。
 なぜ兄はそのことに気付かなかったのでしょうか。それは、父(ここででは神さまのたとえ)の愛やあわれみをよく知らなかったからです。従順な者には従順な者としての報いが備えられているのです。
 この聖書の箇所は、罪人にあわれみ深い神さまと、従順な者に恵み深い神さまの両面が描かれています。そして、どちらも神が愛のお方であることを表しています。
 罪を犯さない人など1人もいません。罪を犯したなら悔い改めれば赦してくださいます。どの道にいようが私たちは神さまの愛に取り囲まれているのです。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年7月17日号(第893号)より転載—

2016年7月12日火曜日

主の守り
 先日、とても恐ろしい思いをしました。揚げ物をするため、鍋に油を注いで火にかけ温度が上がるのを待っていたところ、古新聞の記事が面白くて、すっかりそんなことを忘れてしまいました。
 何をしている、という夫の声にわれに返ったところ、油が何とぼこぼこと沸騰しています。白い煙を出し、しかも部屋中にそれが充満しています。
 すぐさま夫はふたを取り、てんぷら鍋を押さえて発火するのを防ぎました。火災報知器が作動し、火事です、というアナウンスが繰り返されました。あと1分遅かったら、引火して大事故に遭うところだったと、夫は言いました。それを聞いて私は青ざめました。あわや、というところで神さまが災害から守ってくださったのです。私は危機から救われました。
 詩篇127篇にはこんなことばがあります。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい」(1節)これは、結局は神さまの恵みが事を成すのであって、われわれの力などではない、ということを言っていると私は読んでいます。
 全ての事柄の下には神の手があります。神の手が事を成すのです。人の頑張りではなく、全能者のみこころが、事を成し遂げるのです。全能者は私たちを愛し最善をなされます。
 人は努力しますが、それでもなお足りないということは、まま直面する人生の問題です。人間のできることには限界があります。しかし、神にあっては不可能なことは一つもないのです。神さまは配慮に富んだお方です。どうかこの神をあなたの救い主として心にお迎えください。主はあなたに関わる全てのことを益としてくださいます。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年7月10日号(第892号)より転載—

2016年7月4日月曜日

帰って行った取り立て屋
 かれこれ20年になります。牧師である夫がある方に招かれ、お宅に伺いました。その方は事業に失敗し、自己破産されました。法の定める手続きに沿って行われたものであって、返済の義務はもうありません。しかし、それでも諦めないでやって来る取り立て屋がいました。
 やっと与えられた再就職先をかぎつけて、取り立て屋は、会社に借金をばらして解雇させてやると脅しをかけてきました。弁護士さんからは、決してお金を支払ってはなりません、と強く言い渡されていました。
 そして、その日取り立て屋が来るというので牧師を呼んだのです。しかし、何ができるわけではありません。ただ、私たちがしたことは感謝です。テサロニケ人への手紙第二5章18節に、「すべての事について、感謝しなさい」と書かれています。それに従って賛美し、一つ一つ感謝して主に委ね、帰路に就きました。
 夫が帰宅するより早く、私は一本の電話を受けました。その方からでした。牧師が帰った後、すぐに取り立て屋が来たそうです。そして不思議なことを言うのです。「もう諦めた。もう2度とここには来ない」。そう言って取り立て屋は帰って行きました。八方ふさがりで解決がないと思われたにもかかわらず奇跡が起こりました。私たちは大喜びで神をたたえました。
 神さまはよく、「この戦いは神の戦いだ」と語られます。それが神の戦いであるなら私たちは決して負けることがありません。恐れるお方はただ一人、父なる神さまです。このことを知っているならあなたは人生の成功者です。神さまの御手は動きます。感謝を堅くし、神の栄光の現れを求めてまいりましょう。主はいつも、弱い人、貧しい人の味方です。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年7月3日号(第891号)より転載—

2016年6月26日日曜日

 
へブル人への手紙11章に次のような一文があります。「彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです」(26節)というものです。
 エジプトの宝にまさる富という表現からすると、彼とはモーセでしょう。モーセはパロの娘の子として育ち、エリート教育を受けていました。帝王学です。エジプトはモーセの前に大きく開かれていました。
 にもかかわらず、モーセは成人した時、「パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました」(2425節)と言います。モーセは一体何を見たのでしょうか。それは、天の報いです。この世での収支を償ってなお余りある天の報いから彼は決して目を離しませんでした。
 日本での最初の殉教者となった日本二十六聖人も同様です。子どもを含めて26名が長崎の西坂において磔刑に処せられました。子どもたちはことに愛らしく、何とか助け出そうとされましたが、幼いながらも彼らの心は決まっていました。彼らもまた、天の報いから目を離しませんでした。
 たとえ世の命を失うことがあっても、イエスを信じる私たちには永遠のいのちがあります。命すら惜しまずに主に仕えることの報いを彼らは知っていました。次の世にあってもこの報いは付いていきます。
 私たちがどう生きるかは、一人一人に委ねられています。しかし、忘れてならないのは天の報いです。永遠に至るまことのいのちこそ真に価値あるものです。神さまはこれを下さるのです。天国にはあなたの席があります。神に立ち返りましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年6月26日号(第890号)より転載—

2016年6月19日日曜日

 
 黙示録3章に、ラオデキヤにある教会に宛てた神の神さまの私信があります。そこには「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい」(15節)と書かれています。
 クリスチャンになりたてのころ、私の内側は熱く燃えていました。問題の解決を求め熱心に祈り、求める手を下ろしませんでした。ところが、これといった問題も無くなると、その燃えるような神さまへの求めがなくなってしまうのです。これでいいや、と知らぬ間に安逸をむさぼっています。
 神さまが、約束の地カナンにイスラエルを導いてくださった時、最後まで聞き従ったのはヨシュアとカレブ2人だけでした。戦いの時にはイスラエルは日々神さまにすがりしっかりとつながっていましたが、カナンに入ると生活が一変したのです。
 カナンに入ると今までイスラエルを荒野で養った神のパン(マナ)が降らなくなり、民はカナンの地でとれたものを食べるようになりました。つまり、生活の安定を得たのです。民は、戦うことより、そこそこの生活で落ち着く方を選びました。
 神のみこころを行うという使命を生涯全うするというよりも、もうこれ以上苦労したくない、このままでいい、そっとしてくれ、これが本音でしょうか。信仰生活に妥協が入ってきました。
 歴代誌第二16章9節には「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」と書かれています。神さまの心をわが心とし、熱心に主の召しを全うする人生を求めていきましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年6月19日号(第889号)より転載—

2016年6月15日水曜日

富める若人
 マルコによる福音書1017節以降に、一人の青年が登場します。彼はイエスさまに走り寄って、御前にひざまずいて尋ねました。「先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか」
 イエスさまは「戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え』」とお答えになりました。
 青年は、「先生。私はそのようなことはみな、小さい時から守っております」と言いました。
 イエスさまは彼を見つめ、慈しんで言われました。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」
 すると青年は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去って行きました。聖書は「この人は多くの財産を持っていたからである」と記しています。
 財産が彼の献身の道、天に宝を積む道を阻みました。自分にとって良きものであるはずの財産がここでは害になっています。ソロモンは、伝道者の書で「金銭を愛するものは金銭に満足しない。富を愛するものは収益に満足しない。これもまた、むなしい」(5章10節)と語っています。
 生活してなお余りあるお金を持つことは確かに祝福です。決して悪いことではありません。しかし、それを正しく用いるかどうか試されます。富は主から与えられたものです。ですから、神の国とその義のために、そして神の栄光が現されるように用い、共に天に宝を積んで行きましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年6月12日号(第888号)より転載—

2016年6月7日火曜日

罪の赦し
 イエスさまは私たちの罪を赦してくださるお方です。イエスさまは、罪を赦す権威を持っています。私たち人間は罪過の中に死んでおり、自分であろうと他人であろうと、罪を赦すことなどとてもできるものではありません。こういう訳で、人の罪を贖うには、罪のないお方が死なれないとならないのです。
 イエスさまは神のひとり子です。何一つ罪のないお方です。私たちを救い贖うために、世に来られ、十字架で死んでくださり、三日目に復活を遂げられました。ここに神は、私たちの贖いを完成されたのです。
 ルカの福音書にはイエスさまが十字架にかけられた時に起こった様相を伝えています。イエスさまは、二人の強盗の真ん中で十字架にかけられました。群衆もその強盗もイエスさまを口汚くののしり、神の子なら自分を救ってみろと激しく糾弾しました。
 ところが、しばらくたつと強盗の一人が回心するのです。「お前は神をも恐れないのか。(中略)われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」(234041節)、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」(42節)
 これに対してイエスさまはこう言います。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイス(天国)にいます」(43節)
 これがイエスさまなのです。私たちを愛しご自分に身を避けてくるものを知っておられます。罪が支配する時代は終わり、今はキリストにより恵みと祝福が私たちのために用意されています。あなたもまたその全ての罪を赦していただけます。神に立ち返りましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年6月5日号(第887号)より転載—