2023年4月21日金曜日

岩と砂 

 私の故郷は、芋の鳴門金時で知られる四国の鳴門です。もともと塩田で栄えてきた町で、土地は広く砂でできています。砂の水はけの良い土壌がおいしい芋を生むのです。幼少の頃から、私たちは砂に触れ、いろいろな遊びをしました。さらさらした砂はあっという間に指から滑り落ちます。ままごと遊びで泥まんじゅうを作るのですが、乾いた砂は握った圧力を逃がしてしまうので、なかなか形にはなりませんでした。

 代わりに、よくした遊びは、砂を集めて山にして、その中心に小枝を差し、小枝を倒さないように少しずつ順番に土台を削ってゆくというものでした。土台を削りすぎると小枝は倒れてしまいます。そのぎりぎりのところが楽しくて、皆、夢中になりました。

 マタイの福音書7章は、賢い人と愚かな人について言及しています(2427節)。聖書は神のことばを聞いてそれを行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人だと言います。一方、神のことばを聞いてもそれを行わない者は皆、砂の上に自分の家を建てた愚かな人だと言います。

 やがて、雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてそれぞれの家に打ちつけると、岩の上に建てられた家は、びくともせずに倒れませんでした。他方、砂の上に建てられた家は倒され、しかもそれはひどい倒れ方でした。

 ここで考えたいことは、それぞれ何を土台としているかは、見た目では分からないということです。家を建てたことはどちらも同じです。見た目には両者は変わりがありません。等しく順調に進んでいるように見えるでしょう。ところが、長い人生の中では、建てられた家の真価が問われるような時がやって来ます。雨が降り、洪水が来、大風が吹き付けると、つまり試練、患難、困難が起きると、その時こそそれぞれが何を土台としていたかが白日の下にさらされることになるのです。

 賢い人と愚かな人との違いは、主のことばを聞いてそれを行うかどうかにあるというのが聖書の語るところです。岩は土台です。確かなものです。しかし、砂は先に述べたようにどんなに集めようとしても、そのはなからこぼれ落ちて行き、土台を支えるものではあり得ないのです。

 ただこの問題は、私たちの土台が岩なのか砂なのか、後になってみないと分からないというのが難点です。ですから、私たちは慎重であり、また神のことばを聞いてそれを行う者でありましょう。神のことばは岩であり、これに根を下ろすなら何が来ようが決して揺らぐことはありません。神のことばに立ちましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2023年4月21日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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