2017年10月4日水曜日

ヨ ブ

 私は、18歳の時に救われました。半年後には献身し、洗礼を受ける日を楽しみにしていました。
 ところが突然の病に見舞われて、郷里の病院で半年入院する事態になりました。受洗どころか、毎週の礼拝を持つことさえかなわない状況に、なぜ?と床の上でもんもんとしていました。
 聖書にヨブ記という巻があります。ヨブは苦難のしもべとして広く認知され、いわれなき試練の代名詞ともなっています。聖書を知らない人でも、ヨブを知っている人は大勢います。
 ヨブは義人でした。非の打ち所がないと神さまが認めるほど潔白で、神を恐れ、神に仕える下僕でした。しかしサタンは、彼に神をのろう言葉を語らせようとしました。
 サタンはヨブの持ち物を打ち、ヨブは1日にして家族と全財産を失います。しかし、それでもヨブは愚痴をこぼさず「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(121節)と語り、主を礼拝しました。
 しかし、次にサタンは、ヨブの骨と肉とを打ち、ヨブは足の裏から頭の頂きまで悪性の腫物(しゅもつ)で覆われました。ヨブ記では、このあと3章から37章まで、ヨブの苦闘が記されています。
 一貫してヨブは、なぜこのような事が許されるのかと切々と祈り、また尋ね求めています。けれども、神は38章まで沈黙を守られたのです。病床にあった私も同様です。今はそれから35年になりますが、今でも分からない事は多くあります。しかし、私にはこれが必要だった、ということだけは分かっています。
 どのような事があっても神は正しい、この姿勢こそ、私たちに神の恵みと祝福をもたらす、宝石のような信仰です。神に信頼し、従っていきましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年10月8日号(第957号)より転載—

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