2017年5月28日日曜日

 いじめ
幼子から、老人に至るまで、どの場面もいじめがあります。これは私たちが原罪を持つ罪人であることを証明しています。一人一人はそれなりにわきまえを持ち、普段は特別悪人だというわけではありません。しかし、集団になると異なります。
 ソロモンは、箴言で、「憎しみは、うまくごまかし隠せても、その悪は集会の中に現れる」(2626節)と書きました。いじめる側は集団ですから、特別な連帯感の中で、さほどの罪の意識なく、その人を殺すようなことに加担してしまうのです。
 詩聖タゴールもまた、「『人々』は残酷だが『ひと』は優しい」という言葉を残しました。優しい「ひと」を残虐な殺人者に変えてしまうのが、罪であり罪の力です。個人は良い「ひと」であったとしても、「人々」すなわち集団になると、人は別な顔を見せる、というのです。
 私のイメージでは、いじめはアマゾン川に生息するピラニアです。頑丈な牙を持ち、川に入ってきた家畜に一斉に飛び掛かり、遠慮会釈なく食い尽くします。
 ピラニアが一斉に襲い掛かるありさまは、特定の人をターゲットにした集団のいじめに酷似しています。多くの場合、この戦いは多勢に無勢です。死にたくないのはやまやまでしょう。しかし、もう道がない。追い詰められて、最後の選択肢、死を選んでしまうのです。
 イエスさまもまた、いじめを知っておられたと言えるでしょう。無実なのに有罪とされ、唾をかけられ、平手で打たれ、十字架を担わされました。
 神さまは、誰が死ぬのも望んでおられません。イエスさまはあなたを知ってくださっています。あなたの救い主であり、助け主です。そういう訳で私たちは死ではなく、神にあっていのちを選びましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年5月28日号(第938号)より転載—

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