2015年10月3日土曜日

私の結婚
 私には成年に達した未婚の娘が2人います。みこころの人と結ばれますように祈りつつも、紆余曲折あった自分のことを思い出します。
 結婚の転機となったのは、私が握っていたものを手放したことにあります。正直なところ、この人であってほしい、という人が私にもありました。ところがある時、猿の捕まえ方という題の説教をした牧師がいたのです。猿は握ったものを手放さないという習性があるそうです。それを使います。猟師はヤシの実に穴をあけて、石ころをつめて放って置くのだそうです。好奇心旺盛な猿は近づき穴に手を入れます。入れたらそこにある石を握るので、今度は手を抜こうとしてもできません。握った手を放せば助かるのに、それをしない猿は、後からやってきた猟師にやすやすと捕らえられるのです。
 これを聞いてゾッとしました。今握っているものを手放さないと神のものを受けることができないのです。
 あらかじめ自分の答えを持ちながら祈るのは、実は意味が無いことなのです。摂理から何から、物事がどんどんそういう方向に見えたり、聞こえたりしてきます。示してくださいと祈りつつも自分の声が勝ってしまうのです。このように、自分に死んでいないと神のものを峻別することはできません。
 これだけは私から奪わないでください、と祈っている人も時々おられます。しかしどうか聞いてください。神は悪人ではありません。あなたにとってそれが必要なことを、あなた以上に神はご存じです。奪うどころかむしろ得るように助けてくださるお方、それが神です。聖書には、こう書かれています。
 「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(詩篇37篇4節) (イスラエル北野)

み声新聞2015年10月4日号(第852号)より転載—

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