2014年7月24日木曜日

偶像礼拝
 中学2年の夏、ある宗教の夏のキャンプに母の代理で行きました。当時の私の
宗教観は「いわしの頭も信心から」というものでしたので、これも何か の縁
だ、悩みもあることだし、信心してみようかという気になりました。
 こうして私はそこに行き、偶像礼拝を体験しました。それはイザヤ書44節に書
かれている通りです。人間の美しい姿に仕上げて安置してある偶像に 向かっ
て、足を向けてはいけません。靴下も脱ぎなさい、寝る時も足を偶像に向けずに
布団に入るよう求められました。またお経は、一つの物語のよう なものでした
が、文学的にはちぐはぐで趣旨が伝わってきません。それを言うと、お経自体が
ありがたいものなのです、理解しようなんてとんでもあり ません。というので
す。たすきを掛け、題目を唱えながら行進しました。私は、これが宗教か、と思
いました。
 後日私は、キリスト教徒になるのですが、しかしそれは、このとき経験した
「宗教」や「入信」とは全く次元の異なるものでした。それは出会いでし た。
救いの日に私は天地を造られた神さまに出会い、イエス・キリストの福音によっ
て救われたのです。
 宗教を例えるのによく登山が用いられます。宗教は異なっていても、たどりつ
く山の頂上は一つだというのです。しかし、これは違います。宗教の山 は一つ
ではなく、宗教の数だけあるのです。そしてその中で、キリスト教の山だけが天
の頂に届いており、私たちを天国に導きいれ、永遠のいのちを与 えることがで
きるのです。
 神さまは今も生きておられます。人を救うことができるのは、まことの神以外
にはありません。「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい」(ヨハネの手 紙第一
5章21節) (イスラエル北野)

み声新聞2014年7月27日号(第790号)より転載—

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