祈りの人
これは有名な話なので、皆さんも既にご存じかと思います。ある所に、2人の仲の良い男児がいました。1人は裕福な家の子で、もう1人は貧しい家の子でした。2人は仲良しで、幼い頃から教会に通い、イエスさまを深く愛し、成人する頃には主に献身したいという思いが、この2人の内に育っていました。
裕福な家庭に育った青年は、神学校に行くことになりました。しかし、貧しい青年にはその経済がありません。そこで、彼は、裕福な青年のそばにいて、いつも君のために祈ると約束し、それを自分の献身としたのです。事実、青年が説教などの奉仕に立つ時、目立たない所でいつも祈りをささげている彼がいました。
やがて青年は、押しも押されもせぬ名説教者になります。神さまの素晴らしいみわざが現され、その働きは豊かに祝福されました。多くの人々が青年を通して救われていきました。
こうして長年にわたって多くの神のわざが青年を通してなされました。ところが、そうこうする中で、祈りをもって青年に仕えた彼がまさかの急逝。彼は召天しました。そしてそこから次第に青年のご奉仕の様子が変わってきました。なぜか以前のような力が失せてしまい、特別な聖霊のお働きも、ご臨在も、薄くなってきたかのようでした。
悩んだ末、ようやく青年は、幼なじみの彼の祈りが自分の奉仕の働きを支えていたことに気づいたのです。自分を通して主のわざが起こると、人は、無意識の内に自分を称賛する者です。俺はやっぱり優れているのだ、大説教者なのだ、と。誰かが祈ってくださっているからこの祝福があるのだ、という視点を持つ人はまれです。それゆえ、主は青年の親友である彼を取り、これによって青年に真実を教えたのです。自分には誇れるようなものは何一つないと知った青年は、高ぶりから離れました。そして再び講壇に立つことができたのです。
さて、キリスト・イエスの忠実な祈り手という献身者は今日でもこの社会にいます。自分の報いを求めず、ひたすら神のご栄光が現されるよう日々祈っています。祈りは隠れた所での奉仕なので目立ちません。表に出ることはほとんどありませんが、それでも彼らは十分満足なのです。祈り手の報いは主であり主を知ることであるので、彼らは喜んで祈りの手を上げ、日夜主に仕えています。
マタイの福音書6章には、次のような一節があります。「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(6節)
あなたの父とは、神ご自身のことです。神もまた、隠れた所におられるのであって、奥まった部屋で祈るあなたとの1対1の祈りを通して、あなたの声を聞き、応えてくださいます。何というご愛でしょうか。主は私たちを信頼し、寄り添ってくださっているのです。「祈りの人」の報いは主だというのも納得されるでしょう。
献身にはいろいろな形があります。「説教者」「預言者」「祈り手」…など、それぞれ一人一人がなす働きは異なります。そして、一つ一つのパート(部分)がイエス・キリストを頭(かしら)として、互いに組み合わされるようにして、教会は一つのみからだとなるのです。神は一人一人に召しを与え、隠れた所でその召しの全うをご覧になっておられるのです。
人の目に見えようが、見えまいが、主はあなたの奉仕を知っておられます。そして、必ずその奉仕に報いてくださいます。この真実なる主に期待して、それぞれの働きにまい進しましょう。
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