「試練について」
イエスさまを信じて救いを受け、それがあまりにも素晴らしいので献身を表明しました。
自分を主にささげたら、さぞかし素晴らしい祝福が来るだろうと、期待していました。
ところが、来たのは予期せぬ試練でした。
今では分かります。
神さまに自分をささげたら私はもう神さまのものなので、神さまは私を愛しているが故に、最善にあずからせようと、ちゅうちょなく刈り込みの手を入れられるのです。
やって来た試練は病気でした。
予期せぬ病気になり、治療のために東京から郷里に帰り、大学病院に入院しました。
迎えたクリスマスは、本来なら受洗にあずかるはずなのに、教会や礼拝、友人からも遠く離され、ベッドの上で一人耐えていました。
その時は、もうあと一滴でも水が加わると決壊するダムのようでした。
私はもういっぱいいっぱいで、その期間どのようにやり過ごしたかも、覚えていません。
ただ忍耐に次ぐ忍耐で、悩みの炉で試されました。
なぜこんなことが許されるのか、問うてみましたが神は沈黙を守られるのです。
患難や試練についてパウロは、ローマ人への手紙5章でこう語っています。
「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が、希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません」(3~5節)
練られた品性を持ち、失望に終わることのない希望を得させるために神は患難や試練を許されるのです。
それ故パウロは患難や試練さえ喜ぶと明言しました。
試練を喜ぶ?ですか? しかしここに私たちが学ぶべきことがあるのです。
ヤコブの手紙1章に、
「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その信仰を完全に働かせなさい」(2~4節)
と書かれています。
ここでも、試練を喜ぶということが語られています。
信仰がためされると忍耐が生じる、とは本当にその通りです。
忍耐の限りを尽くして信仰を全うした、聖書の代表的な器はヨセフです。
詩篇105篇には、
「彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした」(19節)
と、書かれています。この彼がヨセフです。
ヨセフは幼少の頃から、いずれは自分の家族が自分を拝むようになるという幻を持っていました。
しかし知恵もなくそれを語るので、兄弟のねたみを買って奴隷に売られてしまいます。
その後、主人の奥さんに手を出したというぬれぎぬを着せられ、囚人となり、囚人となった先では、牢(ろう)からの脱出を頼んだパロのしもべに望みを託しますが、忘れられ2年がたちました。
2年の後、ついに時が来ました。
囚人ヨセフは一転してパロに次ぐエジプトの大臣となり、幻は成就します。
ヨセフは飢饉(ききん)の中、全家族をエジプトに呼び寄せ養い、イスラエルを救いました。
ヨセフの試練の背後にはこのような深遠な神の計画がありました。
だからこそ、他の人に増してヨセフは、厳しい試練を通ったのです。
忍耐は、試練という土壌に信仰の根を下ろすということです。
その根が深く長く伸びると、全体を支える力となります。
しかし、ためしもなく、忍耐することもなく芽を出すと、根がないので日照りになれば信仰はなえてしまいます。
私たちは、待たされます。
成就するその時まで試されます。
忍耐を働かせ、神の時を待ちましょう。
(イスラエル北野)
「MIKOE NEWSから転載」 2020年6月6日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/
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