2017年9月15日金曜日

愚かさを通して

 もしあなたが全能者であって、人を等しく救おうと考えるなら、どういう方法を採るでしょうか。能力で人をはかると優劣が生じますし、金銭ではかると持たない人は救われないことになります。
 取りこぼしなく全ての人を平等に救うために、神さまはどのように救いの道をつくられたでしょうか。それは、十字架の福音を信じることによってです。
 信じるということは子どもでも老人でも病人であっても誰でも等しくできることです。御子イエスキリストの生涯、その十字架の死と復活は、私たちを罪や死から贖(あがな)うためであったと信じるなら救われます。ただ信じることそれだけです。他に何も加えません。その信じる信仰によって義と認められるのです。
 コリント人への手紙第一1章18節に、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」と書かれています。これはイエスさまの救いに関することを語っています。福音はありのままの私たちには愚かに見えやすいのです。しかし、それこそが神の知恵であると聖書は語っています。
 同21節にはさらにこう書かれています。「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです」
 「宣教のことばの愚かしさ」、これがキーワードです。巧みな言葉ではありません。ただ、十字架につけられたイエス・キリストを信じること、これこそ、神が用意したただ一つの救いの方法であり、救いに至らせる神の知恵です。
 福音を信じ、イエスキリストをあなたの心にお迎えしましょう。主はあなたの力となり、また救いとなられます。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年9月17日号(第954号)より転載—

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