2017年6月29日木曜日

刈り込み
 私の子守であるHさんは、盆栽を趣味としていました。休日になると台に鉢を載せて、くるくる回しながら不要な枝を刈り込みます。
 その様子は、イエスさまが、ヨハネの福音書15章で語られたことをほうふつとさせます。イエスさまは「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」(12節)と語られました。私たちは、イエスさま流に言うと、ぶどうの木に継がれた枝であって、多くの実を結ばせようと、刈り込みの御手が入るのです。
 それは時には厳しく、心痛むものです。しかし、「後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」(へブル人への手紙1211節)と書いてあります。
 神さまは私たちの霊の父です。刈り込みが許されることについては、このように書かれています。「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたが、だれでも受けるこらしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。(中略)肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです」(同7~10節)
 神さまは愛のお方です。ですから、その叱責(しっせき)は何よりも尊いと私は思います。なぜなら、その叱責は必ず私たちを鍛え、成長させ、そして、神さまのみこころを行う者へと建て上げていくからです。神さまの刈り込みを感謝しましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年6月25日号(第942号)より転載—

0 件のコメント:

コメントを投稿