2015年6月5日金曜日

召しさえ果たせば
 パウロが神のみこころに従ってエルサレムに上ろうとした時、エルサレムでは縄目と苦しみが待っていることが示され、兄弟たちはパウロにエルサレムに上らぬように忠告しました。
 しかし、その事に対してパウロはこう語りました。「私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」(使徒の働き2024節)
 わが意を得たり、と思われる方も多いのではないでしょうか。キリストに出会って新しく生まれたなら、私たちは神さまのみこころを行いたいと切に願うようになるからです。
 日本には、二十六聖人と呼ばれる26人の殉教者がいます。日本で最初の殉教者です。この中には子どももいて、最年少は12歳のルドビゴ茨木でした。彼はことに愛らしい少年で、処刑されるに忍びないと、役人は、信仰さえ捨てれば命を助けてやる、自分の養子になれと言います。しかし、ルドビゴは、この世のつかの間の命と天国の永遠のいのちを取り換えることはできませんと言い、殉教を選びました。
 ルドビゴもまたパウロと同様に、自分に与えられている主の召しを全うするのなら、命を捨てることも惜しくはないと考えたのです。彼らは、天の報いから決して目を離すことがありませんでした。
 たとえ手ぶらでも、天国に行けるのなら最高の祝福です。しかし、願わくは神の確かな実を結んで帰りたいと思います。こういうわけで、召しさえ果たせばつかの間の命に未練はありません。私たちに用意されているのは天国です。そこにある報いから目を離さないで行きましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2015年6月7日号(第835号)より転載—

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