2015年1月22日木曜日

十字架の赦し
 ヨハネの手紙第一に、「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で
正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてく ださい
ます」と書かれています。
 これは神さまの約束です。自分の罪を言い表すなら、つまり「悔い改める」な
ら、どんな罪であっても神は赦してくださると言っているのです。これ は真実
のことばであり、神さまの前で悔い改めた罪は、神さまは、その罪を二度と思い
出されることはありません。それどころかあたかもそれらのこと がなかったか
のような祝福を神は注いでくださいます。
 ルカの福音書15章に、放蕩息子とその兄のことが書かれています。父の身代を
分けた兄弟ですが、弟は好き勝手をし、湯水のように財産を使ってし まいまし
た。落ちぶれて帰ってくるのを父はあわれみ、子として迎え宴会を催しました。
ところが、兄はそれが気に入らなかったのです。「私には、友 達と楽しめと子
ヤギ一匹下さったことがないのに、遊女に溺れた息子には子牛をほふらせるので
すか」と反発します。
 あの人の方が私よりはるかに大きな罪を犯したのに赦され、そればかりか祝福
まで受けているなんて許せない、そんな憤りを心に抱いたことはありま せん
か。放蕩息子の兄はそうでした。私たちはねたみやすく、また、人を罪に定めや
すいものです。しかし、神さまは赦しの神です。
 イエスさまは、その十字架で流された血潮によって私たちの罪を覆ってくださ
いました。神は十字架の血潮を通して私たちを見てくださるので、あた かも
一度も罪を犯したことのない者が受ける祝福がやってくるのです。こういうわ
けで、あなたもまた、福音を信じましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年1月25日号(第816号)より転載—

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