2021年11月10日水曜日

新しい人

 コリント人への手紙第二に、次のようなことばがあります。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(517節)

 その通り、誰であれ御子イエス・キリストを信じ、自らの救い主として心にお迎えする人は、新しく造られた者です。なぜなら、その人はイエスを信じることによって「救い」を受けたからです。今から約2000年前、イエス・キリストが世に来られ十字架で死なれたのは、私の罪を贖い赦すために私の身代わりとなって死なれたのであり、またイエス・キリストが三日目に死からよみがえられたことによって、人類は死に勝利し、信じる者は誰一人として例外なく永遠のいのちを持つようになりました。それまでは、罪過の中に死んでいた何の望みもなかった私たちですが、キリストが来られたことによって、すべてが一新されました。古い私は過ぎ去り、すべてが新しくなったのです。

 新しくなった、というのは古いものが過ぎ去ったということです。そしてこれはイエス・キリストによって実現しました。キリストを信じる以前の私は、世にあってさまざまな悩みに縛られていました。端的に言えばサタンの支配の中にいたのです。自分で自分を救うことはできません。そういう点では、囚われ人であったと言えるでしょう。

 しかし、キリストが来てくださったことによって、できないことができるようになりました。その最も大きな出来事は救いを得るというものでした。罪からのきよめ、死からの復活、病のいやし、悪霊からの解放、問題からの解決を頂きました。目には見えませんが、私はキリストにあって、新しく生まれたのです。

 新しくなったということで最も大切なのは、サタンの支配から神の支配へと移されたということです。私たちはサタンの支配下にありましたが、イエスを信じることによって神の、御父の支配のもとに置かれるようになったのです。

 ある時、私は牧師に聞いたことがあります。サタンに攻撃されたり、支配されたりすることが不安だ、というものです。

 それに対して、牧師は「新しいあなたに対してサタンは何の手出しもできませんよ」と言いました。本当にその通りなのです。キリストにあって新しく生まれた者に対しては、どんなにサタンが攻撃の手を尽くそうとも効き目がないのです。十字架のイエスさまは、真実、私たちを贖ってくださったのです。

 新しい私は、完全な罪の赦しを受けています。また、聖霊の導きの中に生き、死から命へと移っています。恐れることはありません。サタンはもはや敗退し、信じる者はキリストの支配のうちに置かれています。この素晴らしい救いにあなたもこの瞬間から加わることができます。見よ、すべてが新しくなりました。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年11月10日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年11月6日土曜日

天国

 昨年最後の日曜日に、教会の姉妹が召天しました。姉妹とは、教会のスタート時から今に至るまで30数年間、共に教会で過ごしました。親しい方であったので第一報を聞いた時には驚きました。けれども、彼女は天国に行った、ということがなぜかよく分かりました。そして、天国が急にとても近く感じられるようになりました。

 天国は、私たちクリスチャンにとって故郷でありホーム(家)です。懐かしい方々がそこにおられます。すべてのことを感謝することを教えてくれたマーリン・キャロザースさんや若いころ大変お世話になった新井先生、断食祈祷の力を教えて下さった崔子実先生も。フィリピンで殉教したジャッキーやジュリエッタたち、そして私の父も息子も。他にもSさん、Mさん、Tさん、Aさんもと枚挙にいとまがありません。多くの友人知人が既に御国の子となって、パラダイスにいます。ひょっとすると地上にいる私たちより天にいる者たちのほうが人数多くなったかもしれません。

 天に召されて、今、姉妹は、天国のすばらしさに満ち足りていることでしょう。先に天に行かれたご主人とも再開を果たされたでしょうし、ひょっとしたらマーリンさんとともに「プレイザロード」と神を讃えているかもしれません。姉妹の喜びが伝わってくる思いがします。

 天国がどれほど素晴らしいところか、皆さん薄々は分かっておられるように思います。しかし、知ってはいても、この素晴らしい天国に入るにはどうすればよいのかまで知っている人は極わずかです。また、死んだあと自分はどうなるのか、これも誰もが問いたい疑問です。

 聖書によれば、イエスさまを自分の救い主と信じる者は、罪赦されて、死んだらパラダイス(天国)へ行きます。しかし、信じることをせず、罪の赦しを受けない者は、おのれの罪と不義の中に死にます。そしてハデス(黄泉)に置かれるのです。日本語では、一口に「地獄」と言われていますが、聖書では地獄は「ハデス」と「ゲヘナ」の2つに分かれていて、前者ハデスはキリストを信じないで亡くなった死者が一時的に置かれる場所で、後者ゲヘナは、文字通りの地獄で、昼も夜も苦しみを受ける硫黄の燃える火の池です。

 信じることによる天国の救いのハードルは、驚くほど低いことを知ってください。ローマ人への手紙10章には、このように書かれています。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(910節)

 すべての者が救われるために、神はただ御子を信じることを唯一の救いの条件とされました。信じるならば救われる、ただこれだけです。神はあなたが信じて永遠のいのちを受けることをみこころとされています。福音を信じましょう。 

MIKOE NEWSから転載」 2022年11月6日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年11月3日水曜日

神の慰め 

 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます」これは、コリント人への手紙第二14節にあることばであって、私たちへの神の約束です。まもなく還暦を控える自分の人生を顧みると、一度や二度ならず深い苦しみの時があり、挫折し倒れたこともありました。

 多くの方は、神に関して厳しい方というイメージを持っていますが、それは私たちの罪に対する神の神性、そして、その神の聖さに対する私たちの罪に対する自覚がそうさせるのであって、神さまご自身は慈愛の父、慰めの神であり、変わりないお方です。また、神は聖であり義なる方であるため、生まれながらに原罪を持つ罪人である人間とは相交わることはできません。なので、私たちがいつでも神に帰ってくることができるよう、神は罪人が神に立ち返るご計画を立て、私たちに御子イエスさまを下さいました。イエスさまは私たちの赦しのために、およそ、2千年前、一度世に来られ、十字架で私たち人類のすべての罪を担い、死んで下さり、三日目によみがえり、贖いを成し遂げてくださいました。ここに、神のご愛は十字架という形に結実し、私たちの「救い」が決定したのです。

 神は私たちを愛しておられます。私たちには苦しみが許されることがありますが、その苦しみの中で、私たちを愛してくださるのも、また神でした。神は、幾度となく慈愛の父、慰めの神となってくださり、私を庇い、敵の前でご愛を注いでくださいました。

 それ故分かります。この方が、裁きをするなら、その裁きは正しいのです。この方のご愛は、律法以上に働き、罪を超え、どんな罪人であっても、悔い改めるよう働きます。そして悔い改めの実を結ばせると、今度は私たちを慰めてくださるのです。罪の赦しは、想像を超えるような大罪を犯していても、些細な罪であっても、どのような時であっても、神が私たちの避け所であって、私たちの罪のために流された御子イエスの血は全ての罪を赦し清めます。

 さて、イエスさまのご愛に関してマタイの福音書1220節にはこう書いてあります。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」というものです。彼とはイエスさまであり、そのご愛は慰めに満ちています。そして忍耐のある愛だと言えるでしょう。いたんだ葦とは、折れかけている葦で、くすぶる燈心は、今にも消えそうな明かりです。しかし決して、その葦も燈心も消し去られることはありません。イエスさまが、守ってくださるのです。

 イエスさまの慰めは私たちに満ち満ちています。イザヤ書5112節では「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは何者なのか。死ななければならない人間を恐れるとは」、と書かれています。私たちを慰めてくださるのは神ご自身です。私たちが試練、困難の中にある時、神は確かに人の世にはないようなご自身の深い慰めを注いでくださいます。そして、人の知られない所にその慰めは届き、私たちの苦しみは祝福へと変えられるのです。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年11月3日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年10月26日火曜日

恐れ 

 恐れは、私たちの感情の1つですが、扱うのに厄介なものです。恐れは私たちを委縮させ、恐れさせているものの奴隷とならせます。ですから、恐れに勝利した人は、人生の成功者だと言っても過言ではないでしょう。

 かつて、難易度の高い空中ブランコに挑戦するあるサーカスの団員がいました。十分に訓練を重ねて来たので、演技にも自信を持っていました。いよいよ本番という時、カーテンの袖で出番を待つその人に、トレーナーがあるひと言をかけました。「大丈夫か。本当に大丈夫なのか」。

 何ということでしょう。トレーナーのその一言で、その人の心に一点の「疑い」が入りました。そしてその疑いはその人に「現状」を見させたのです。その人は初めて、失敗するかもしれない、という「不安」に囚われたのです。その不安は的中し、その人は失敗してしまいました。もし、トレーナーが、「お前にはできる。大丈夫だ、行ってこい!」と語ってくれていたら、また結果が違ったのではないかと私は思います。

 詩篇2925節にこのような記述があります。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」というものです。確かに人を恐れる者は、自らわなに落ち込んでしまいます。しかし、神に信頼するなら、その中でも守られていくのです。

 聖書の中で、人を恐れて失敗した代表例は、イスラエルの初代王であるサウルです。(サムエル記第一1315章参照)サウルは、ぺリシテ人との戦いに備えて士気を上げるため、全焼のいけにえをささげたいと思っていました。しかしサムエルが定めた7日間を待ちましたがサムエルは来ません。人々が自分から離れ散ってゆくのを見て恐れたサウルは、許されていないにも関わらず、自分で全焼のいけにえをささげてしまいました。人間的な手段をもって民の心をつなぎとめようとしたところにサウルの失敗があります。遅れて来たサムエルは、愚かなことをしたものだ。あなたの王国は立たないと宣告しました。

 その後、アマレクとの戦いがありました。ここでもサウルはアマレクを聖絶せよという主の命令に聞き従わず、価値のないものばかりを聖絶し、主に逆らいました。それに対してサウルは、罪を認めました。でも、私は民を恐れて彼らの声に聞き従ったのですというのがサウルの弁明で、そこには責任転嫁が見られます。しかもサウルは王としてのメンツ保持のために、サムエルに私と一緒に帰り私の面目を立ててくださいと懇願しました。サウルにとっては、神の前に自分がどうあるか、ということが関心事なのではなく、民にどう思われているのかが大事であったのです。神の前に真の悔い改めがあったかどうかは疑問です。

 確かに、人を恐れるとわなにかかります。恐れは失敗を生むものなのです。前述の空中ブランコの人が失敗したのは、トレーナーのひと言によって自分を見、現実を見、思わずも恐れに囚われてしまったからです。それに引き換え神への信頼、神への聞き従いは、わなに勝る生き方です。それ故、私たちは神を恐れることを学びましょう。主に信頼する者は守られます。神を恐れ、神に聞き従うことをあなたの人生の土台としてゆきましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年10月26日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/


2021年10月18日月曜日

ご臨在 

 神さまご自身がまさにここにおられる、そのように感じられるもの、それが「ご臨在」です。

 198312月に私は、東京都杉並区のМキリスト教会を訪ねました。小学校の時に日曜学校に通っていたので、教会の温もりや教会の聖さ、そして教会の喜びが思い出され、懐かしさとともにその日何か期待するものがありました。

 何かが違う、その何かがその日私にはたらきました。礼拝の後に、教会の牧師が祈ってくださいました。すると、昔歌った「いつくしみ深き」という讃美歌が胸によみがえってきました。そして「などかは下ろさぬ、負える重荷を」という歌詞を思い出し、それが心に深く触れました。イエスさまが、おまえはどうして重荷を下ろそうとしないのか、と懇ろに語ってくださるかのようで、身も心もたちまち主の元に立ち返りました。私は、救われたのです。目には見えませんが見える以上に神がそこにおられることを、感じ取っていました。理屈ではなく神がそこにおられる、これが「ご臨在」で「ご臨在」のある所に神のわざがあり、救いがあります。

 また「臨在」は力です。かつて父が、危篤の床にあった時、母が「もう一度チャンスをください」と祈ったら、大勢の御使いたちが病室に来たというようなざわめきが起こり、病室の空気が一変しました。さぞかし厳しい戦いがあるだろうと覚悟して病室に向かいましたが、ドアを開けてみると既に「ご臨在」があるので驚きました。主が来てくださっていたのです。人にはできないことでも神に不可能はありません。主は「ご臨在」の内におられ、奇跡が起こりました。父は危篤を脱しました。

 慕わしいもの、それは「ご臨在」です。ロサンゼルスにあるオン・ザ・ウエイ教会にプレイヤーチャペルがあります。ここは、四隅に天使が立ち、チャペルが「ご臨在」に満ち満ちて、霧のように一面に覆われた所として有名です。私たちは、幾度となくこのチャペルを訪れ、祈りつつ時には眠りつつ、一日中そこにいて祈り込みました。「ご臨在」の中には豊かさがあり恵みに満ち、 1歳を迎えたばかりの私の娘は、初めて1人で立ち上がって歩きました。忘れ得ぬワンシーンです。

 「ご臨在」を、ひと言でいうと、「その場から立ち去りがたい」というものです。ずっとここに居たい、心ゆくまで主と交わりたい、そういう願いが尽きず御神が慕わしいのです。詩篇の作者はこう歌いました。「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります」(1611節)その通り、ご臨在の中に主は生きておられ、また満ちておられるのです。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年10月18日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2021年10月13日水曜日

愛のかたち

 私の夫は、生まれた時から病弱で、この子は二十歳まで生きないであろうと医者に言い渡されていました。そこで、小学3年から3年間、区内の体の弱い子たちが集まる千葉の健康学園にいきました。そこでは学業が今一つ振るわないので、ある時、義母が学校に呼び出されました。ところが義母は、そこで担当の先生に啖呵を切ったのです。「うちのこはな、生きているだけでいいんだよ! いいか、勉強しなさいなんて絶対言うなよ。言うと承知しないからな」圧巻です。子に対する母の愛はかくも深いものなのかと、私も面喰いました。

 母の愛と言えば、皇后雅子さまは、娘の愛子さまが不登校であった時、いつも学校に付き添われました。それをバッシングされ、いろんなストレスがあったでしょう。しかしそれでも雅子さまは、ご自分の体調がすぐれないのにもかかわらず、付き添いを続けられました。ことわが子の事であるなら、親は困難を耐え忍ぶことができるのです。これは、愛です。確かに愛だと思います。

 10代の後半、私は重い病気になりました。車いすで飛行場に着いた時、真っ先に父が駆け寄り迎えてくれました。父は知人に「代われるものなら代わってやりたい」と語ったといいます。父とはよく喧嘩し、勘当され、仲が悪かったのです。しかし、本当のところは、父にも愛されていたのです。私が思うような形の愛ではなかったのでそれが見えなかっただけで、私は愛されていました。

 愛は、自らを犠牲としてささげることをいとわぬものです。私の次女は重症のアレルギーで、治療のために除去食の実行が必要でした。アレルギーの子専用のミルクもありますが苦くて飲まないので、代わりに私が除去食をして母乳で育てました。よくそこまでできるわね、と感心されましたが、子どものためなら苦にはなりません。これは今までにない発見で、私にも愛がはたらいていたと思います。

 先日、ある若い女性と結婚について語り合いました。彼女は、自分以上にその人が大事で、自分を忘れるくらいその人のことを大切に思える、そんな人が現れたら結婚してみたいな、と控えめに語りました。なるほどと思います。それが出会いというものなのでしょう。愛は、そのかたちにおいて自己否定を伴います。逆に言えば、自己否定できるのが愛です。自分以上に大切なものとして相手を持つこと、それは一つの愛のかたちだと思います。

 イエス・キリストは、その生涯において、私たちを愛されました。イエスさまは、私たちを贖うために世に来られました。十字架で死なれたのは、それが私たちを贖うための代価であったからです。イエスさまは、罪人である私たちの身代わりとしてただ一度死なれたのです。そして、その死を代価に、人類のすべての罪が贖われ、またそれによって罪の赦しを受けました。そして、それが確かなものであることのあかしとして、イエスさまは死んで3日目に復活を遂げられました。このことを信じ告白するなら、私たちは救いに与かります。

 世にはさまざまな愛のかたちがあります。親子の愛、友愛、男女の愛、そして神の愛です。すべての愛の土台となるのは、キリスト・イエスにある神の愛です。神はあなたを愛しておられます。主イエスをあなたの救い主として心にお迎えいたしましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年10月13日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/  

2021年10月5日火曜日

笑顔のクリスチャン 

  世の中には善良で従順な、誰が見てもクリスチャンだと分かる輝きを放つ人がいます。本当に、クリスチャンという人は、喜びに満ちた笑顔をし、何より聖霊に満たされています。どうしてあなたはそんなに輝いているの? その喜びは一体どこから来るの? なぜ、悪いことが起こったのにそれを感謝するの? 多くの人がその秘訣を聞きたいと願っています。

 マーリン・キャロザース師はそのことの第一人者です。マーリンさんは、見るからにクリスチャンだと分かるような輝きがあります。全身が喜びに満ち、神の栄光を現しています。ご自身の書かれた本の表紙に取り上げられているマーリンさんのお写真は、おそらくプレイズ・ザ・ロード!と言って主をたたえておられる時のものでしょう、内側に深い喜びがあって体全身が明るく輝いています。この方は、世にありながら既に天国を生きている、そういう印象を受けました。

 体全体が明るく照らされているということに関しては、マタイの福音書6章に、「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう」(22節)という一文があります。このことばがマーリンさんの上に実現しているのです。目は心の鏡といいます。目が病んでいるならそれは体全体が病んでおり、目に力があるならそれは体全体を明るく照らすのです。マーリンさんは全身が明かりに照らされた、神の器です。

 他にも、近しい所ではレーナマリアさんや、田原米子さんなどが上げられます。お二人は体に障がいを持ちながら、最大級の喜びを頂いてイエス・キリストの栄光を現しておられます。お二人にとっては、障がいの二文字は全く効き目がありません。そもそもお二人とも、ご自分を障がい者として見ていないでしょう。お二人は、神は私をとても愛してくださっている、と言います。この神さまの素晴らしさ故に、常に主をほめたたえているのです。彼女たちは、多くの者が神に立ち返るためのきっかけとして広く用いられています。

 さて、教会にはいろんな方が来られます。事実は小説より奇なりと言うように、私たちには信じがたい苦難に会った人が大勢いるのです。それは望み得ない病気であったり、貧しさであったり、罪の縄目の苦しみであったりします。けれども、教会に来てしばらくたつと、少しずつ神の愛がその人の心に浸透し、その人は変わっていきます。そして遂には、唇に嘆きの言葉ではなく感謝がのぼるようになり、キリストの栄光を現します。イエスの十字架によってすべての罪が赦された今、誰もが神の元に帰ることができます。涙に変えて、とびっきりの笑顔で神をほめたたえるようになります。

 この笑顔はどこから来るのでしょうか。実はこれこそ私が伝えたいことなのです。今日、あなたの心にイエスさまをお迎えしましょう。そうすれば主はあなたを救い、あなたの内に一点の曇りもない喜びを与えてくださいます。それ故、笑顔でいましょう。イエスさまは私たちを救ってくださいましたし、これから先も救ってくださいます。主イエスこそ、あなたの心の喜びです。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年10月5日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/