2025年11月20日木曜日

汝の敵を愛せよ

 ふとしたことから病院に入院して、3カ月を越えました。その中で学んだことは実に多いものです。人間同士だから、当然そりの合う人も合わない人もいます。仕方のないことではあるでしょう。

 安静度の高い時には、すぐ隣にあるトイレにも看護師付き添いなしには行かれませんでした。人の前で排尿するというのは緊張して、そうなかなか尿が出せるものではありませんでした。すると、ペシッとお尻をたたかれて「目を覚ましなさい」と叱られました。それ以降、その人のやることなすことすべてが、私に対してあたかも「憎しみ」があるかのように思うようになりました。また、別な人は、目では笑っているが一つ一つの言葉の節々が厳しかったりもしました。他の看護師がやってくれることも、私が自分で行うようじっと待機して動くことはありません。

 ああ、嫌われているな、と私は思ったし、実際そうであったでしょう。私も、その人と距離を取っていたと思います。

 ある時、そんな人たちに対して、思い余って「わたしはあなたのことが嫌いです」と口にしようと思いました。宣戦布告です。しかし、主の御霊がそれを止めました。そして、「汝(なんじ=あなた)の敵を愛せよ」というキリストのことばを思い起こさせてくださいました。

 ルカの福音書6章に、キリストのことばとしてこのようなことばが書かれています。「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。」(2728節)。「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはなりません。そうすれば、自分も罪に定められません。(略)与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」(3738節抜粋)

 そこで私は、怒りを捨て、彼女らの看護に対して、最大限の感謝をささげるようにしたのです。意識して、「ありがとうございます」「お世話になりました」と心を込めて口にするようにしました。

 すると、事態が変わってきたのです。ビジネスライクな言葉以外に「この薬は北野さんに合っているようだね」だとか「つらかったね」といった心通う会話ができるようになり、今では最も信頼のおける看護師さんの一人となっています。感情に任せず、主のことばに従っておいて、本当に良かったと思っています。
 たといどんなに腹に据えかねることがあっても、決して誰に対しても「あなたのことは嫌いです」などという言葉を口にするべきでありません。主がその人とあなたとの関係をどう変えてくださるか、私たちには分からないからです。

 同様に、人の心の裏側を読むことも避けたい事柄です。私自身がかつてはそういう人間でした。快い言葉も裏があるに違いないと思い警戒する人間でした。

 ところが、主イエスは聖書の中で「なぜ、むしろだまされていないのですか」(コリント人への手紙第一67節)ということばを残しています。仮に裏があったとしても自らを聖(きよ)く保つことは、警戒するより、はるかに徳の高いことです。裏切られてもむしろ信じることを選びましょう。隣人をやっつけることより、隣人を愛することを学びましょう。

 日本のことわざにも「負けるが勝ち」というものがあります。勝ち負けや損得に立っていること自体が既に敗北であるのです。「神は愛です」(ヨハネの手紙第一416節)。それゆえ、神の中にいる者は、愛の中にいるのです。

 神さまの愛は私たちの思いを越えてはるかに高いのです。ですから、愛を求め、愛を実践しましょう。神はあなたと共におられます。(コリント人への手紙第一1348節)

MIKOE NEWSから転載」 2025年11月20日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年11月14日金曜日

 ナースコール

 81日から、3カ月の予定で入院しました。一時私の安静度は高くて、24時間監視カメラに撮られて、ベッド上で体位を変えるだけで看護師が飛び込んできました。すぐ横にあるトイレも看護師なくしては使うことが許されません。

 私は、自分では自分は強いものだと思っていましたが、覆されました。若い女の子がにこにこしながら頻繁にナースコールを押し、かつ愛されているのを見て、本当に強い人というのはこの少女のような人をいうのだと、考えを改めました。

 トイレコールもぎりぎりまで我慢し、顔を洗うのも我慢し、歯磨きもベッド上で行い、したいようにはできません。そのうち、妄想が出て来て、自分は監視されている、管理されている、病院には裏の顔がある、と思うようになり、ベッド横にあるセンサーに「盗聴」の文字が浮かんでいるのを見るに至っては、ますますその確信を強めました。逃げたいと思っても、起きようとするだけでセンサーが作動するのです。神の手が重くのしかかっていました。

 よく、漬物を作る時、野菜に塩を入れて重しの石をのせて3カ月ほど置いておきます。すると水分が上がって来て、仕上がってゆくわけですが、私に起こったこともこれと同様で、新鮮野菜の私から漬物になった私へと神によって作り変えられた3カ月であったと思います。これから先私を食べる人(笑)は、私の味が変わったことを知るでしょう。

 10月末に試験外泊をして、いよいよセンサーも外され楽になりました。しかし、本当につらい3カ月でした。

 この中で学んだことがあります。それは、老いについてです。若いつもりが私も還暦を迎え、立派なおばあちゃんになりました。年を取るということは、人の手を借りるということです。人の手を借りるには、病院や施設の規則を守らなければなりません。好きなように生きてきた時の生き方を捨てる覚悟が私たちに持てるでしょうか。ナースコールを押すためらいを捨てて、介助を受けられるでしょうか。ある人にとってこれはたやすいことでしょうが、私はナースコールが鳴るたびに、びくびくしておびえていました。だからこそ、ナースコールを押せる人こそ本当に強い人なのだな、と思うに至ったわけです。自分を誰かに委ねるということを意識し、決意していないと、いきなり人の手を借りる事態になると大変な苦しみとなることが目に見えています。

 みな、どのように死んでゆくのでしょうか。人の目に触れない施設や病院、またナースコールさえない所で、死への尊厳なくして、この世を去っていく人がいかに多いかということを私は知りました。年を取った人ほど、尊厳が必要なはずです。しかし、これを語る人は多くはありません。いっそ死んだほうがましだと思っても、その死すら逃げて行くようにすら思えます。それゆえ、マザーテレサは「死を待つ人の家」を立ち上げたのです。

 生きていくことは、何より大切なことです。だからこそ、老いに備える必要があるのかもしれません。気力体力が失われ、何の喜びもないという人生が来る前に、また家族の顔すら忘れてしまうような病が始まる前に、天国へ行く備えをしてください。主イエス・キリストの名を呼び、救いを受けましょう。

 栄華を極めたソロモンが書いた『伝道者の書』に「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また、【何の喜びの日もない】と言う年月が近づく前に」(121節)という一節があります。老いが進めば、自分が自分であることさえ分からなくなります。

 あなたが労苦して蓄えたものを誰かが持っていきます。あなたが軽んじていた者が、あなたに横柄になり、あなたを粗末に扱うことすらあるでしょう。その中で信仰だけが、あなたを支えるつえです。神に信頼する以外、頼りになるものはないと思います。

 詩篇71篇の作者は、こう叫んでいます。「年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください」(9節)。「年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。」(18節)

 介護する側の大変さは想像に難くありません。しかし、介護を受ける側として備えていかなければならないものもまた老いには伴うと知ってください。

 主イエス・キリストの救いこそ人生最大の備えです。救いを受け取り、人生の最大の備え、支えを得ましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2025年11月14日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/