2025年9月24日水曜日

 老いと向かう

 「60歳にしては若いわね。つやつやの髪。まだまだ染めなくても大丈夫よ」と美容室でほめられた私ではあるが、そろそろ白髪をどうにかしなければならない、と思い始めている。

 老いは残酷だとやはり思う。若さのまぶしさを、力みなぎる様子を、私が過去に持っていた若さの可能性を、この年になって強く意識するようになった。

 顧みて、自分は顔にシミができ、風呂場で見る自分の体形も崩れ始めている。孫がいるのだから、おばあちゃんで当然だけれど、これから先、つえ無しで歩けなくなるのか、おむつのお世話になるのだろうか、そこまでして、どうして生きなければならないのか。私には、その答えがない。

 みんなどうやって生きているのだろう。あきらめているのか? 希望を持っているのか? それとも、自然と老いに対してまひしていくのか。

 そのどれもが正解かもしれない。不思議なのは、老いを悲観して死んだ人のことを聞かないことだ。むしろ、老人は、1日でも多く生きたい、そう思うようである。老いること以上に、命が大切だと老人は知っている。だから、身体のある部分を修繕してでも、生きる機能を保ち、生きるのだ。

 若さ以上に大切なもの、それが命だと老人は知っている。老いることをみっともないと考える私は、しょせん外見しか見ていないのだろう。老いに対する努力、生きることへの戦い、神の前にそれはいかに尊いものだろうか。

 私の夫は「よぼよぼになっても美しい人はいる」と言う。「内面の美しさこそ、年を取った人の美しさだ」と言う。「そんな人になりなさい」とも言った。しわしわになって、白髪になって、どうして美しいといえるの? 相変わらず、私は問うた。花であっても盛りを越えると無残に朽ちるじゃないか。美しく朽ちていくことなんてあるわけない。朽ちた花のどこがきれいなの? がぜん反対した。

 ただ考えられるのは、盛りを迎えたからこそ、「朽ちても後悔なし」と言えるということだ。次の世に向かって、死に向かって、迷いなく生きることはできるだろう。これが、もしかすれば、内面の美しさをたたえた老人の姿なのかもしれない。

 私は、最後まで生きようとする老人の姿を知っている。彼らは決して諦めない。1日でも長く生きるためにすべてをかける。これはこれで、評価されるべきことではないかと思う。彼らは、命(死)の先にある国、天国に向かおうとしているのだ。そこに行くために、残された11日を本当に大切に生きている。1日でも長くこの世に生きようとしている。

 永遠という世界に、彼らは向かおうとしているのだ。顔のシミや白髪は、永遠の前には小さなものだ。残る人生を神の前にどう生きるかこそが、より大事なことではないだろうか。シミや白髪はむしろ神の時が近づいていることを教えてくれるものなのだ。

 キリストを知った者としての確信が、年老いながら内側からの美しさとして私たちを輝かせることがあるのだろうか。天国の前味を知った者としての美しさを放つことがあるなら、そうありたい、と私も思う。

 主も、年を取ったからといって私たちを捨てられない。イザヤ書46章にはこう書かれている。「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(34節)

 さらに、みことばは教える。「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ書4031節)

 胎内にいる時から、しらがになっても、主は変わることなく、いつまでも私たちを運んでくださるという。また、主を待ち望むなら、たとい老いても、鷲のように翼をかって上り、走ってたゆむことも歩いて疲れることも無い力が与えられるというこの約束を、主のことばとして信じていきたいと思う。主を待ち望む時に主が力を与えてくださることを信じることが、私の老いへの答えとなった。

 御国に行くその日まで、主は担ってくださる。背負ってくださる。運んでくださる。この主に信頼することが、内面の美しさとして現されることを求め始めている。

MIKOE NEWSから転載」 2025年9月24日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年9月17日水曜日

 TAMANAの奇跡

 最近起こった神さまの素晴らしいみわざをお分かちしたいと思います。それは、自動車に乗っていた時、虹を見たところから始まりました。こういう時、往々にして特別な神さまのご計画が始まるのです。

 ちょうど、西ヨーロッパのワードオブライフという宣教団体から数名の若い方々が日本に来られました。彼らは、ご自分の国で、日本の宣教のために熱心に祈りを重ねておられました。すると、祈りの中で彼らは「TAMANA」という言葉を捉えたのです。「TAMANA」に何かある。「TAMANA」に主のみこころがある、彼らはそう捉えました。
 彼らは最初に「YOKOSHIMA」という言葉が思いに浮かんだそうですが、調べたところそれが「TAMANA」、すなわち日本の熊本県玉名市にある横島町という地名だと分かりました。それで玉名市のいくつかのキリスト教会に連絡をしたのですが、どこからも返事がありませんでした。しかし、連絡はついていないけれども、とにかく日本に行って、トイレ掃除でも何でも良いから「TAMANA」で働いて主のみこころを行いたい。そういう意識を持って、彼らは日本に来て、私たちのTLEA教会にやって来ました。

 するとどうでしょう。私たちTLEAには、九州に「TLEA玉名教会」があるのです。彼らの驚きは非常なものでした。神のことばどおり「玉名」に奉仕できる教会があることを早速、本国に伝え、主をあがめました。そして、彼らは期待を持って「玉名教会」に向かったのです。

 もう一人、この件で感動した人物がいます。それは、「玉名教会」のI牧師です。I牧師は、ずっと神の働きのための助け手が与えられるよう祈ってこられたのです。I牧師の奥様は、お体がご不自由で車椅子の生活をなされています。まさに、お二人は、宣教を助けてくれる方を求めておられました。

 普通、それは近所で与えられるのではないか、というのが私などの浅はかな考えです。ところが、このI牧師の祈りは主に届いて聞かれました。主はこの祈りの答えを何と日本をはるかに超えたヨーロッパから起こされたのです。本当に、私は驚きました。

 神には、場所の制限などないのだということを、学びました。世界全体で主は働きをなしておられるのです。

 かつてある賛美の器が、祈りの中で「長崎」ということばを聞きました。主が遣わされる場所を主がその人に「語る」ということはあるのです。これは、本当に神から来たかどうかを、しっかりと吟味し、そうであるなら、堅く握ってください。そうすれば、神のご計画のその時に必ず成就することでしょう。

 「TAMANA」は、全国的に名が知れ渡っている地名かといえば、決してそうではありません。でも、心を尽くして神の前に祈っていた方がおられたのです。そして、主もその祈りを聞いてくださっていたのです。

 このことを通して、私たちも学びましょう。祈りは聞かれることと、時に思いもよらない所から祈りの答えが来ることを。今回は地球の端から、答えがやって来たのです。

 ゼカリヤ書で、このような約束のことばがあります。「シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。」(99節)

 また、マタイの福音書にはこう書かれています。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(778節)

 これは、求め続けるという継続を表すことばで書かれたものです。求め続け、捜し続け、たたき続けるなら、必ず開かれるとイエスさまはおっしゃっているのです。

 忍耐を持って、祈り続けましょう。信じることをやめてはなりません。時が満ちたら、私たちは必ず、祈りの答えを見ます。「TAMANA」の奇跡を覚えて、あなたも主に求めましょう。祈りを聞かれる方がおられることを、生ける神の現実を、私たちはこのことを通して学びました。主に信頼する者は決して失望に終わることがありません。

MIKOE NEWSから転載」 2025年9月17日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年9月10日水曜日

熱いか冷たいか どちらかであれ

 ヨハネの黙示録3章に、ラオデキヤの教会に向けて書かれた神のことばがあります。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。」(15節)

 その通りです。神さまは、生ぬるいのより、熱いか冷たいかはっきりした姿勢を望まれます。

 代表的な人物と言えば、パウロでしょう。彼は、主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司の所に行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼み、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るまで、信者を捕え引きずり出す権限を得て、熱心にその働きを行っていました。まさに行っていることは神に敵対することでした。(使徒912節参照)

 ところが、神はパウロをあわれまれたのです。ダマスコの近くまで来た時、突然天からの光が彼を巡り照らしました。彼は、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」というイエスの声を聞きました。2614節によれば「とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」という声さえ聞いています。

 主に出会って、サウロ(パウロ)は一変します。「彼は、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。」「彼が私の名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」と主は語られました。(91516節)

 コリント人への手紙第二11章には、パウロが受けた困難の数々が記されています。39のむちを受けたこと、石打ちに遭ったこと、一昼夜、海上を漂ったことなど、並大抵ではない労苦を重ねています。パウロの人生は、イエス・キリストにあって180度変えられたのです。主に反する者から、主の器へと、神は彼を変えてくださいました。あれほど、主に敵対したものが、主の器に、主の使徒へと変えられたのです。たとえご自身に敵対していても、決して生ぬるくはない、ある真実を、主はパウロという人間に見ていてくださったのでしょう。

 チェコのS宣教師は、ある時「この群れから脱会します」という連絡を私たちに送ってこられました。私たちの教会を悪く言う者たちが、S宣教師に入れ知恵をしたようで、私たちは心配しました。特に「脱会」という言葉が重く響き、私たちは祈るとともに、帰って来られるよう求め始めました。そして、A牧師は、「サリーさんは必ず帰って来る」とおっしゃったのです。

 そして、およそ7年でしょうか。S宣教師は悔い改めて戻って来られ、再び群れの宣教師として立つことを許され、その働きを始められました。

 素晴らしいことに、S宣教師が復帰してからの働きは、脱会に至る前までの働きをはるかに上回っているように感じます。神は、これまで以上にS宣教師を用いておられるのです。ウェブコンサートという新しい働きが始まり、東ヨーロッパの働きが幾段にも進みました。さらに、主はS宣教師ご夫妻を用いようとされているように思えます。

 たとえ、主の前につまずくことがあっても、立ち返り主に戻るなら、その問題をはるかに超えた大きな働きを任せてくださいます。主は必ずあなたを用いてくださるのです。神さまとは、そういうお方なのです。

 そういうわけで、私たちは、熱いか冷たいかどちらかでありなさい、という神の声に聞きましょう。そして当然、熱い者でありましょう。パリサイ人で迫害者であったパウロは、主に出会い、キリストのためにいのちをささげ、殉教していきました。熱い人生を歩んでいたパウロだからこそ、神は真理の道へ導かれたのでしょうか。その人生は大きく変わりました。人生はすべて、神が私たちを捕えてくださるものなのです。

 MIKOE NEWSから転載」 2025年9月10日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/


2025年9月5日金曜日

 大切な方を天国へ送った方へ

 誰でも、いつかは天に召され、地上での別れを体験するものです。故人を愛していた者にとって深い悲しみを覚えることもあるでしょう。

 私は、父を肝臓がんで亡くしました。車椅子でも良い、どんな形でも良いから一日でも長く生きていてほしいとずっと思っていました。しかし、どんどんがんは進行しました。治療するのですが常にがんに先手を取られました。がんはどんどん進行し、本当に悔しい思いをしました。

 肝臓がんの末期は、厳しいものです。最後にはおびただしい下血が訪れました。水道水をひねるようなひどい下血が訪れた時、もう駄目だと母は思ったそうです。全身の血が崩壊したような状態になったといいます。吐血ではなく、下血であったことが不幸中の幸いといえば幸いでした。しかし、失血してしばらくすると、いよいよ別れが始まってきました。父に、チェーンストークス呼吸が始まったのです。父は、懸命に呼吸し負けまいとするところを見せてくれました。私たちは、父のもとに立って、一人一人「ありがとう、お父さん。お父さんの子であってよかった。やがて私も後から天国に行くからね。」などとあいさつしました。父はちゃんと聞いてくれていたと思います。

 最期には、父は二人の御使いを見ていたようです。身体を傾け「もう少し生きることをお許しください。」「何とかお願いします。」「どうしても生きたいのです」と3度求めて、しかし、「もう、あなたの地上の時は終わっている」と聞き入れられることはありませんでした。3度求めて聞き入れなかった時、父は「分かりました。」と身体を戻しました。その瞬間瞳孔が開いたのです。父は御使いに両側から抱えられるようにして天に旅立ちました。こういうわけで、父が天国にいることに疑いはありません。しかし、いなくなった父への寂しさはなくなりません。その時、読んだのがマタイの福音書です。

 「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。」(マタイの福音書61920節)

 これを読んで、本来の聖書解釈を超えて、父が天にいることが最善だと分かったのです。自分の宝とは、私にとって父のことでもあったからです。これ以上、父が病んだままで地上にいるなら、がんという虫が来て、さびが出て、傷もののままなのです。さらに損なわれることも起こるでしょう。

 だから、大切な人を天にたくわえること、つまり天に送ることはより優れたことなのです。確かに、寂しさはあるでしょうが、天に大切なその人を送るなら、もはや病も朽ちていくものもありません。天国は最善の場所なのです。

 アンデルセンの物語で、子どもを死神に連れ去られたお母さんが、子どもを追いかけて、子守歌を歌うことを引き換えに、また、いばらで胸から血を流すことを引き換えに、さらに、二つの目を引き換えに、湖を渡り、ようやく子どもの所に、死神の住まう所にたどり着きました。子どもの命である二つの花を引き抜こうとした時、死神は、手を出してはいけないと言い、二つの人生を見せました。その時、地上において苦しい道を行く子どもの姿と、天国で慰められている子どもの姿を見せられ、どちらを選ぶのか、と問われたという話があります。お母さんは、答えられず結局、この子のために一番いいようにしてください、と答えるにとどまったそうです。

 何が幸せかということは、そうそう判断できるものではないでしょう。しかし、「宝」すなわち、「大切なものは天にたくわえなさい」という神のことばには、聞くものがあると思います。

 もし、愛する人を亡くした方がおられるなら、天国でその方と再会することを喜びとしてください。その方が、既に天にいるなら、さらなる希望を持ってください。天は最善の場所であるからです。

 私は、父が天国に行ったことで、病の傷や痛みがいやされていることを信じています。地上ではがんでつらい思いをしましたが、天国において慰めを受けているのではないでしょうか。天国は最高の場所です。

 ただ、イエス・キリストを主として信じるだけで、あなたも天国に行くことができます。例え、私たちのこの世の命が尽きたとしても、天国にて永遠に生きることを許され、そして天において、先に天に行った人たちと再会することができます。それも生きて再会するのです。

 天の御国に望みを置く時、私たちが失うものは、何一つないのです。

MIKOE NEWSから転載」 2025年9月5日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/